「あら珍しい…!」

通路で隣人の妻に声をかけられ、ハーレイは立ち止まった。
近くのスーパーマーケットの紙袋を抱えたまま、にこやかに婦人に向き直る。

「お休みですか?」
「ええ。親戚の子が遊びに来ていましてね」

すらすらと嘘が出てくる事に自分でも呆れながら、当たり障りのない内容を口にする。
職場にはぎっくり腰だと電話したが、ブルーと顔を合わせる可能性のある者には
それなりの事を話しておかなくてはならない。
1人暮らしの自分のフラットに少年が入り浸っていたらどんな尾鰭がつくか、
想像するのは簡単な事だった。

「ゆくゆくはこちらの大学に進みたいらしくて」
「まあ!優秀でいらっしゃるのね…!」
「ははは、そんな事はありませんよ」

婦人の目が好奇心に輝くのを見て取り、些か強引ではあったが適当に話を切り上げ、
扉の中に滑り込む。
閉めた扉に背を預け、一つ大きく息を吐いた。

―――先週でなくて本当に良かった…。

仕事は一応のケリが付いていたため、職場には今週は無理そうだと告げている。
「お大事に」と返した電話の向こうの声も少し笑っていたから大丈夫だろう。
しかし、週明けには散々からかわれることは覚悟しておかなくてはなるまい。
「どこで無理をしたんだ」とか「彼女、激しいのが好みか?」等々、嘘の原因が
原因だけに下半身絡みの内容ばかりだろう。

休みの理由についてはかなり悩んだのだが、嘘でも"不幸"にはしたくなかったし、
あまり大きな怪我なども嫌だったから一番無難そうなものを
選んだつもりだったのだけれど―――。

もう一度ため息を付こうとしたハーレイの耳に、ぺたぺたぺたっという足音が届いた。

「ハレイ…っ!」

ぶかぶかのトレーナーに裾を大きく折り返したジーンズを履いて現れた、休みの
本当の原因が舌っ足らずに自分の名を呼ぶ。
急に増えた同居人、獣からヒトへと姿を変えた少年が、にっこりと笑った。
それにはもうぎこちなさはない。
ブルーが人間になって5日が過ぎていた。















―― 月が輝く夜だから 03 ――















買ってきた食料品をテーブルに並べる。
傍に立ったブルーがそれを面白そうに眺めていた。

―――今日は服を着ているな。
缶詰を鼻先へ持っていき、クンクンと臭いを嗅ぐ姿を横目で見て、ハーレイは
3度めのため息を付いた。
これまで家に帰って白い裸体を目にして何度も脱力したものだったが、今日は
大丈夫だったようだ。

服を着るという習慣の全くなかったブルーにとっては、Tシャツとスウェットの
下だけでも拷問のように感じたのだろう。
初日は腕と足を通しただけで激しい抵抗に合い、それらが無惨な布切れと化すまで
10分もかからなかった程だ。

「食べるか?」
「うんっ!」
「じゃあ、皿を持っておいで」

ぱたぱたと棚に駆け寄る姿は、靴下も履いていないし、アンダーのシャツが
裾からはみ出しているけれど、それでも大進歩だといえる。
ハーレイは少し満足げに笑った。

木曜深夜から今日まで、ヘレン・ケラーの恩師サリバン先生の気持ちが痛いほど
分かった5日間だった。
服を着るだけじゃない、日常生活のありとあらゆる事を教えなければならないと
いうことが如何に大変か―――これは経験してみないと分からない。
プライマリースクールまでの子育てを短期集中の5日間で済ますようなものか。

実際の人間の子供を育てたことはおろか、結婚すらした事がない自分が言うのも
おこがましいのだが、相手はまっさらな赤ん坊ではないのだ。
獣だった頃の記憶をしっかり持っているブルーでは、大変さは倍増だった気がする。
裸でうろつかない、トイレで用を足す、立って歩き、椅子に座り、手を使ってものを掴む、
食器を使って食事をする…等々普段人間が当たり前に行っていることが如何に
難しいことか…!
人間の素晴らしささえ学んだ気がした5日間だった。

缶詰の中身をスプーンを使って――口の周りやテーブルはベタベタに汚れているのだが、
それでも直接舌で舐めることはしなくなった事は大いに進歩だ――食べる姿に、
相好が崩れてしまう。

苦労したせいだけではない、自分の身体の奥底から湧き上がってくる愛おしさは、
大人が小さく幼いものへ、ほぼ例外なく無条件に抱くものだろう。
或いは、人間のDNAに組み込まれたものに違いない。

そうなのだ。
この感情は―――。

「…旨いか?」
「うんっ!ハレイ…!」

3歳の子供がするような恰好で、不器用に掬っては口に運ぶ。
その様子を笑いながら眺めていたハーレイは、あらかた腹の中に納めてしまった
ブルーの唇の脇に付いたソースを親指で拭ってやった。

「こんなに汚して…。ん…味はいいな」

ソースの付いた指を自分の口に入れる。
咥内に広がったものは完熟したトマトの濃厚な味で。
それを舌先で転がしていると、すっとブルーが顔を寄せてきた。

「―――っ?!」

舌を延ばしてハーレイの唇の間に押し込む。
同じ味を纏った濡れて温かいものがハーレイの指を追いかけてくるのだ。
とうとう唇が重なる―――瞬間、心臓が跳ねた。
華奢な肩をぐいと押し返す。

「ブルーっ!」
「…もっと…」

ブルーが小さく呟き、ハーレイの腕を掴む。
自分の肩から外し、手首を取ると親指を口に含んだ。
湿った柔らかいものに包まれる感触に、身体がかっと熱を持つ。
それが性的なものであることに、ハーレイは目を見開いた。

「や…止めなさいっ!」

身体を強い力で引き剥がされた上に常にはない大きな声であったので、
ブルーは驚いて目を見開いた。
いつもは優しい褐色の瞳に睨みつけられ、怯えたように後ずさる。
見えないけれど、丸めた尻尾を足の間にしまってしまったような様子に
ハーレイはちり…と心に痛みを覚えた。

己のこの動揺や苛立ちは、ブルーの所為ではないのだ。
ハーレイは意識して声を低く、穏やかなものに変え、表情を和らげる。

「ブルー、大きな声を出して悪かった。でも、そんなことをしてはいけない。
 テーブルやお皿と同じだ。もっと欲しくても舐めてはいけないんだ」

分かったね。
そう言いながら微笑んでみせれば、こくっと頷いたかと思うとがばっと抱きついてきた。
ブルーの微かな体臭や温もりを感じると、またぞろ身体が疼き出す。

―――どうしてしまったんだ、自分は…!

最初は、服を着るのを嫌がり裸で部屋を逃げ回ったブルーを捕まえて腕の中に
閉じ込めた刹那湧き上ったものだった。
「風邪引くだろう!」と投げるように毛布を被せ、トイレに駆け込む。
緩く勃ち上がった己のものを確認して愕然とした。

流石にそこで自慰に及ぶ訳にもいかず、治まるのを待ってから部屋に戻ったが、
この5日間でそんなことが度々繰り返されている。
現在特定のパートナーもおらず、また、仕事が忙しかった所為もあり、このところ
セックスとは縁遠い生活を送ってきたとはいえ…。

―――同性の年端もいかない少年相手に何を考えている…!

ハーレイはひとつ頭を振り、解決法を考えることにした。
ブルーも大分人間としての生活に慣れてきている。
今晩あたり出かけても良さそうだ―――。



「少し出掛けてくる。先に休んでいなさい」

その夜ブルーは、扉の向こうに消えるハーレイを見送ったのだった。



























-------- 20090329