―――この気持ちは何なのだろう…。この痛みは…。



身体の奥が痛む。
何かに力任せにぎゅっと掴まれているような感覚。
朝仕事に行くハーレイを見送る時に感じるものに似ている…とブルーは思った。
痛む部分、トレーナーの心臓の上の部分をきゅっと握り締める。

帰りがけに買い物をしてきたのだろう、紙袋を抱えたハーレイがキッチンに向かう。
入口で鞄を預けられたブルーは、ひたすらに大きくて広い背中を見つめた。

ハーレイは今帰ってきたばかりだから、一度寝てもう一度起きないと
仕事には行かない。
すぐ見送ることはないのに…。
それが分かってもいてもなお胸が苦しい。
チクチクと針で刺されるようで堪らない。

どうして痛むのか、ブルーに理由は分からなかった。
けれど原因は分かっていた。

ハーレイから漂ってくる匂いだ。

今日はいつもより少し帰りが遅かった。
まだ明確な時間の感覚は無いブルーだったが、おなかの空き具合で分かる。
いつもより遅いのだ、間違いなく。
そして遅くなると、ハーレイからはこの匂いがする―――雌の匂いが。

それだけじゃない。
ブルーを嬉しくさせる香りがしなくなっているのだ。



ハーレイの大きな身体から匂い立つ香り。
発情し、欲情しているという香りが。



ブルーが人間の姿になってから、ハーレイの態度は変わった。
おおよそは同じなのだけれど、時々戸惑ったような狼狽えたような態度を取る。
まれに怒ることさえあった。

それはいつも、ブルーがじゃれついたり、舐めたりする時だ。

どうしてそんな態度をするのか―――ブルーは分かっていた。
そんな時、ハーレイからはある香りがしている。
雄が雌に発情を表す香りだ。

雌でもない自分にどうして…と思い、最初はブルーもハーレイと同じように
戸惑いを覚えた。
けれど同時にそれはブルーにとって嬉しいことでもあったのだ。

なぜって、ハーレイに触れられると、これまでとは違うものが身体の奥底から
湧き起こってくるから。
もどかしい熱は自分も発情しているのだと、ブルーは本能的に理解していた。

そのブルーを嬉しがらせた香りがしなくなったのは、ハーレイが夜出かけるように
なってから。
かなりな上機嫌で帰ってきた彼からは、その香りの代わりに別な匂いがしていた。

その匂い―――今ハーレイから漂ってくる匂いを嗅ぐと、ブルーは胸が苦しくなる。

どうして…。
分からないけれど、苦しい。
ブルーは俯いた。

「…ブルー?」

キッチンからの呼びかけに弾かれたように顔を上げる。
「早くおいで」の言葉に小さな声で返事をすると、重い足取りで歩き始めた。















―― 月が輝く夜だから 04 ――















反抗期だろうか…。

食事と後片付けを済ませてソファーに座っても、ブルーは近寄ってこない。
いつもは、否、これまでは待ってましたとばかりに身体を擦り寄せ、あまつさえ膝に
乗ろうとさえしてきていたというのに。

仕事に行き始めて2週間。
先週は様子がおかしいことはなかった。
今週に入ってからだ、ブルーの態度が変わったのは。
甘えてくる回数が極端に減った。
頭を撫でてやることさえ嫌がることもある。

少しは大人になったのだろうか…。
姿恰好に見合って、内面も人間に近づいてきたのかもしれない。
それは良いことだ。
けれど―――。

ブルーの表情が冴えない。
笑いが消え、代わりに俯き、口をきゅっと結んでいることが多くなった。
様々な事柄を学び、考えているというよりも、どこか痛むのではないかと
思わせるような表情なのだ。

実際そのことを口にした。
けれど、ブルーは顔を横に振るだけだった。
何も答えずに。

そんな毎日が繰り返されていく。
気詰まりな空気に、自然ハーレイの帰宅が遅くなる夜が増えていった。



「やっぱり反抗期ってやつなのか…」
「―――誰のこと?」

隣で気だるげに身体を起こしたのは、ひと月前にバーで出会った女性だった。
背中を曲げ、まだ仰向けに寝そべったままのハーレイに唇を落とす。

ハーレイにしては珍しく、出会ったその晩にこういう関係になった。
身体の熱を鎮めたい―――その利害が一致した結果だった。

5つ程年上だが、とても肌が合う。
肌だけではない。
もう何年も付き合った間柄でもあるかのように気軽に話が出来る相手だった。
ハーレイは自然にブルーのことを話していた。
無論ケモノから変化したとは言っていないが。

「うちで預かっている甥っ子さ」
「…ああ。まだ15だっけ?」
「まあ、そんなもんだな…―――っ?!」

暗い室内で何かが動いたと思った瞬間、ぺちんと額を叩かれた。
何をするんだと起こしかけた胸に乗り上げられ、ぐっと体重をかけられてしまう。

「ブレンダ…!何を―――」
「まだシーツの間じゃないか…。身体の奥があんたのものを恋しがってるってのに。
 こんな時に甥っ子の話?」
「ああ…!すまない…!」
「あんたらしいと言えば、あんたらしいけど」

ブレンダはハーレイの身体に乗ったまま、指先で汗ばむ胸をなぞった。
鎖骨から、逞しい筋肉の端にひっそりと息づく、身体に見合わぬ可愛らしい
突起に辿り着く。
それを、きゅっと摘んだ。

「痛いよ…!」
「―――そんなに気になるのかい、その甥っ子のことがさ?」
「そんなんじゃ……。いや、なるかな。やはり寝起きを共にしてるし」
「言うねえ!」
「痛いって!」

そのまま再び身体が重なる。
ハーレイの腕がブレンダのしなやかな背中に回された。
ちらとブルーの沈んだ顔が浮かぶ。
微かに胸の奥が痛むけれど、身体の熱に流されるハーレイであった。
今夜も遅くなりそうだ、そう思いながら。



「行ってくるよ」
「………うん…」

一応見送りはしたが、用意された朝食も食べる気がせず、ブルーはソファーで
丸くなった。
膝を抱える。

―――昨夜も。
かなり遅かったハーレイに気がつかない素振りで寝たフリをした。
肩を揺すられて起こされたが、あの匂いを嗅ぎ取ってしまい、ハーレイの腕を
振り払う。
それ以上強く起こされることも、抱えてベッドに運ばれることもなかった。
ブルーは結局そのまま、ソファーで朝を迎えた。

窮屈な格好で眠った所為だろう。
身体のあちこちが痛む。
ハーレイのベッドから下ろされ、初めて独りで眠った日と同じに。

痛くて、寒くて、さみしくて。
ブルーはぎゅっと唇を噛んだ。

ハーレイと同じ恰好になれて、初めは単純に嬉しかった。
同じテーブルで同じものを食べて、拙いけれど会話をして、笑いあって。
でも、でも―――。
こんな思いを再び味わうのなら、こんな姿になんか変わらなければ良かった…!

じんと瞼の裏が熱くなる。
こみ上げてきたそれがゆっくりと溢れ出してしまう。

「―――ハレイ…っ!」

微かにソファーカバーを濡らして、ブルーは身体を震わせたのだった。















続く











-------- 20090419