―――あ……。

低く、くぐもった声が上がる。
木製の机と椅子が1つきりのがらんとした広い部屋。
机に肘を付き、薄く平たい皿を覗き込んでいる。
水鏡だ。

「しまった…」

今度ははっきりと口にし、顔を上げながら額に手を当てた。
高い背もたれに寄りかかると、それは軋んだ音を立てる。
難しい顔をして目を閉じたが、思案していたのは1分ほどですぐに瞼を開くと
机にあった白い陶器のベルを摘み上げると、ちりんと鳴らした。

「ミケを呼べ」

遠くで「かしこまりました」と応えがあり、プ…ンと微かな羽音が聞こえる。
しばらくして扉が開く音がし、1人の男が現れた。
銀縁の眼鏡を掛けた、少し神経質そうな男は椅子の前で跪く。
深い一礼に目線だけで頷くと、椅子に座った男が口を開いた。

「お前に頼みたいことがある」
「―――なんなりと」
「この案件だ」

白く長い指が宙に踊る。
するとその軌跡が白銀に輝いた。
アルファベットのような文字と数字が幾つか並び、それを見上げた男が1つ頷く。

「…もう"刻限"になりましたか…」
「ああ。これの結末をお前に見届けてきて貰いたい」
「約束通りになったか―――ということですね」
「そうだ。頼めるか…?」
「勿論です」

我が主の仰せであれば―――。
横にした腕を胸に当て頭を下げると、すっくと立ち上がる。
長衣の裾をひらめかせると、その長身は掻き消すように消えたのだった。















―― 月が輝く夜だから 01 ――















「さて……」

残業続きで今日も――いや既に昨日なのだが――午前様なハーレイは、ベッドを見て
ため息をついた。
丸まって眠る銀の獣、ブルーと名づけたそれはとても気持ち良さげだ。

拾ってきたときは片手に乗るくらい小さかったのに、今では後ろ足で立ち上がると
ハーレイの胸に届くほどまでに大きくなった。
そのこと事態はとても喜ばしいことなのだが……。
ハーレイは人差し指で眉間を押さえてため息をつく。

確かに1年ほど前、拾ってきた当初はミルクをやって腹の上で眠ってしまったら、
そのまま抱っこしてやった。
ベッドに潜り込んでくれば入れてやったし、テレビを見ている時膝の上に乗せて
やった事もある。

確かに、そういうことをしてやった。
けれどそれは小さかった頃の事。
この大きさになった今ではそれを受け入れる事は出来ない。

ベッドはシングルサイズだし、ブルーに合わせてハーレイの身体が大きくなる筈も無い。
無理なのだ、と何度も言って聞かせた。
時には力づくで床に下ろしたりしたのに―――。
ベッドの上のこの状態。
今日までの残業の疲れがどっと襲い掛かってきたような脱力感を味わいながら、
ハーレイは口を開いた。

「ブルー…」

名を呼ばれた獣の瞼がゆっくりと持ち上がるが、立ち上がる素振りも無い。
警戒心の"け"の字もないその態度に、ハーレイは何度目か分からないため息をついた。
確認した訳では無いけれど曲がりなりにも犬族なのだから、その態度はなんなのだと思う。

「起きなさい、ブルー」

とろんとした瞳でハーレイを捉えるとそれは急に見開かれ、ブルーは跳ね起きた。
千切れんばかりに尻尾を振り、飛び掛ってくる。
ハーレイを押し倒すと、上に乗って顔をぺろぺろと舐めた。

「ははっ、よせって!」

くすぐったげに笑いながらブルーを押し返し、立ち上がった。
キッチンの隅に置かれたボウルが空になっていることを確認し、ベッドの脇の床に
敷いた毛布を指差す。

「さあ、自分の寝床にお帰り」

ブルーの大きな耳が下がる。
そんな様子に、彼は人間の言葉が解るのではないかと常々思っているハーレイは、
人に話すように言葉を続けた。

「何度も言っているだろう?君の寝床はあそこだ。もう一緒に寝られないんだよ」

しょげ返った頭を撫でる。
銀の毛並みが柔らかい。

「ブルーは大きくなってしまったし、あのベッドでは君と私には小さすぎるんだ。
 互いに風邪を引いてしまうかもしれない―――分かるだろう?」

ブルーはくぅーんと1つ鳴き、すごすごと毛布に向かった。
耳も垂れ、俯いて歩く姿に胸が痛むけれど、仕方が無い。
酒を煽る気分にはなれず、それならさっさと寝てしまおうと決めたハーレイは、
窓の扉を閉めるべくカーテンを開けた。

今日は月の出が早かったのだろう。
まだ日の出までは時間があるのに、かなり傾いでいる月の光が室内に差し込む。
その長い足は窓から遠いベッドまで届いていた。
ブルーの身体も優しい銀の光に包まれる。

輝く毛並みに目を細めていたハーレイだったが、その表情が一変した。
月の反射だけではない光が、ブルーの身体から発せられている。

「ブルーっ?!」

次第に強くなる光に駆け寄ったハーレイの目の前で、それは始まった。

綺麗な銀の毛、それが短くなっていく。
耳が小さくなり、鼻が縮まり、顔形が変わる。
手足が伸び、五指が開いていく。
尻尾も身体に吸収されていくように短くなっていった。



ブルーが―――人間に変わっていく。



どのくらいの時間だったのか。
目の前に横たわるのは、全裸の少年。
自分の目で見た事だが信じられない。
これがあのブルーなのか…?

ハーレイは床に膝を付くと、恐る恐る伸ばした手でその身体に触れた。
温かい身体。
すべすべした肌は、間違いなく人間のものだ。
唯一獣の面影を残す銀の髪に触った。

変わらない。
柔らかさに、少しだけ安堵する。
そうっと身体を揺すった。
躊躇いつつも、ハーレイはその名を呼んだ。

「…ブルー、ブルー…」
「―――…ぅう…ん…」

瞼が開く。
鮮やかな色が姿を現す。
ああ、これも変わらなかった―――綺麗な紫の瞳。
そこにはいつもと変わらず、ハーレイが映っていた。

「っ!!」

白く小さな顔にぱっと笑みの花が咲いた。
きれいな笑顔に魅せられ、ハーレイは息を呑む。
硬直した大きな身体に、ブルーは飛びかかった。

「わんっ!」

思わず抱き留めてしまい、腕や首に滑らかでひんやりとした素肌を感じる。
驚きで益々身体のコントロールが出来ないのに、いつもの調子で全体重を
預けてくるブルーにベッドに押し倒された。
その刹那鈍い音が響く。

「―――っ、くぅ…!」

ベッドヘッドに後頭部を強打したハーレイの視界で、見慣れた天井がくらりと回った。
それが白に取って変わる。
ブルーに圧し掛かられ、顔をぺろぺろと舐められながら頭がぼんやりと霞んでいく。
わん、わんと響くブルーの声も次第に遠くなり、ハーレイは意識を失った。



































-------- 20090314