診察した医師は、薄めた消毒薬で手を濯いだ。
声をひそめて、結果を話す。

「脈も正常ですし、お渡しした解毒薬が効いていると思われます。
 その医学生の知識は正しかったようですね」
「・・・・・そうか」
「しかし、この種類の薬物は完全に効果が切れるまでに時間を必要としますから、
 彼の言うとおりの量を摂取しているのであれば、明日も一人にしない事です」
「監視が必要だ、と?」
「ええ。それに、もっと心配な事があります。心の問題です」
「・・・・・」
「あなたもご覧の通り、身体の傷はかなり酷いものでした。この傷は日数が経てば
 綺麗に治りますが・・・惨いものだったのでしょう、彼になされた事は」
「・・・・・」
「あの傷を見れば、想像がつきます。一人だけではなかったようですし」
「・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・5人、だ」

ああ、と小さい声を発した。
医師は指先で眼鏡を上げながら、ベッドのソロモンに振り返った。

「何と云うことでしょう・・・・・」



眼鏡が光る。
それは、ランプの光を反射したものか、それともその奥、
医師自身の眼が光ったものか。

「そんな光景を見逃すなんて!」

上ずった声を出した薄い唇の両端が上がる。
白髪交じりの茶色い前髪をかき上げ、うっそりと笑う。

「この美しい身体に5人もの男が群がっているなんて・・・・・」

医師は感極まったようなため息を漏らした。
それは明らかな欲情の結果であることを、如実に示す代物だった。

継ごうとした言葉はアンシェルの抑揚の無い声に阻まれる。

「薬を置いて帰りたまえ。目の毒だったようだな」
「これはこれは。あなたの愛玩物でしたか!」

医師は腕を胸に当て、軽くお辞儀をしてみせる。

「道理で天上の美しさ。さぞ良い声で啼くのでしょうね」
「・・・聞こえなかったようだな」
「いえ、すぐに消え去りますとも・・・ただ、一言お許し下さい」

返事をしないアンシェルを諾とみたのか、医師は言葉を続けた。

「間を空けずご覧になるあなたにはお判りにならないかもしれませんが、
 彼を二度と下界に出してはなりません。あの髪、顔に華奢な身体、
 両の目は拝見してはおりませんが、澄んだ青か緑なのでしょう・・・・・いけませんね」

芝居めいた動作で首を横に振る。

「その気が無いものまで"誘われている"と勘違いしても致し方ありません。
 物凄い色香ですよ。既に自身を無くしているこのワタシでさえ、
 自制心を失いそうでしたから。いつからこのようになってしまわれたのかは判りませんが、
 彼がこれまで同様の被害にあっていないとなると、最近なのでしょうね―――――
 お心当たりがおありのようだ」

伺うようにアンシェルを見た医師は、嫌な笑いを浮かべた。

「このままでしたら屋敷の中、いえ、あなたの寝室以外に彼の安息の地はありませんよ。
 閉じ込めることがお出来にならないのなら、彼に力を与える事です。
 あなたと同じような・・・・・」

アンシェルの両眼に赤い光が灯ったとみるや、医師は素早く扉の向こうに消えた。
去り際に甲高い笑い声と、言葉を残して。

「ほほほ、恐ろしい!」

その声音には恐怖など微塵も感じられない。





心当たりがある・・・

心の問題・・・・・・





「ふざけたことを」
少し増長させたか。

代々ある王族付きの薬師の家系であったが、近年の技術革新でその一族は地位を失った。
その一族の中でも異常な程薬物に獲り憑つかれた彼を取り立てたのは自分だ。

この男の薬物、殊に毒物に対する執着は己の生命へのそれを軽く凌駕する。
その所為なのか、実年齢はもう80を越えている筈なのに、外見上はまだ40才台半ばだ。
毒物に関する知識と、どんな薬物も必ず入手出来るそのルートは便利なものであったが、
人外の様相を呈してきた彼の男も切り時かとも考える。

アンシェルは舌打ちすると、微かに呼吸する以外微動だにしないソロモンを見た。


これを、屋敷から出さない。
一歩も。


それは身震いするほど魅惑的な提案だった。
ソロモンをまるで小さなカナリアか何かのように籠に閉じ込めて―――――
自分だけの、美しい玩具―――――





苦笑してアンシェルは首を振る。
彼はディーヴァの花婿なのだ。

自分が、そう決めた。
このアンシェル・ゴールドスミスの決定なのだ。
それは絶対であることを意味する。


そう―――――
「もう、お遊びの時間は終わったのだ」












前  夜  ――4――










赤い。
動くものも動かないものも、総てが赤い。
眼前で崩れ落ちていく何かもまた、真っ赤だ。


血に彩られた顔がゆっくりと横を掠めたとき、それは聞こえた。

「―――――、・・ソロ・・・モ・・・・・・ン・・・!・・・」






ソロモン?





アア きイた コト ガ ある




ひと ノ な だ



だれ ?


誰だった ?

それ・・は・・・・・それは・・・!





潜水していた深い海の底から海面に浮上したかのように、ソロモンは大きく息を吸った。
大量に取り入れた空気の、むせ返る程の血生臭さに驚く。

室内の至る所が赤く染められている。

これは血液・・・?
何が起こったのか―――――起き抜けの様な意識のソロモンには分からない。


どさり。
崩れてきたものが左肩にぶつかった。
ひんやりとしていて、ぬるぬるしていて、そして酷く重い。

顔形は確かにテオドールなのに、これはテオドールではない。


・・・なんだ・・・?


肩にもたれ掛かる格好のテオを起こそうとした右手が空を切った。
そこにあるはずのものが、無い。


テオの左肩が、腕が・・・・・









「うわああああああああああああああ!!」

大声を上げてソロモンは跳ね起きた。

室内を見回しても、視界のほぼ全域を支配していた"赤色"は染み一つ見当たらない。
自分にもたれかかった、まるで死体のように冷たくなったテオドールの姿も無かった。

さっきのは、夢?
あの鼻につく臭いも、ぬるぬるとして気味の悪い感触も、全て幻だった・・・?



改めて室内を見回して気がついた。
ここは、見覚えのある部屋。
いつもアンシェルに・・・アンシェルに抱かれる部屋だ・・・
ソロモンは知らず両腕で己を抱き締める。



目の端に動くものを認め、びくっと身体が震える。
それは壁に立てかけられた大きな鏡に映る自分の姿であった。



鏡の中に――――――ベッドの上で寒そうに自分の身体を抱く己の姿。



酷く顔色が悪い。
血の気が無い青白い顔に、深紅の唇。

確か、猩紅熱の患者がこういう顔をしていなかったろうか・・・
高熱に浮かされた患者特有の、赤い唇。

自分が浮かされたのは、快楽という名の熱だった・・・



淫らに見える唇から視線を逸らす。
青白い顔の下、自分の物ではない服の襟元に覗く、赤黒い痕。

それを認めた途端、頭の中で奔流のように映像が蘇る。

ソロモンには鏡の中のベッドの上で乱交する男たちが見えた。
実際には映ってはいない、自分の記憶に刻まれた映像―――――



あの赤い部屋にもベッドの脇に大きな姿見が置かれていた。
睦みうあう自分達の姿を見たいと要望する客が多いのだろう。



見てしまったのだ、自分も。
テオに、5人もの男に抱かれながら恍惚とした表情を浮かべる自分を。
快楽に悶え、狂った、己が姿を・・・!

薬の所為だとしても、あのあられもない姿は、間違いない、自分のものだ・・・
小刻みに震えながら、自分を抱く腕に力がこもる。





否――――――

この部屋に赤いシミ1つ無いのと同じに、アレも幻なのではないか。
そんな都合のいい考えが湧き起こる。

だが、全身に広がる倦怠感と鈍い痛み、両手首に巻かれた包帯。
それらが一斉にソロモンの記憶が事実であったと訴えている。

お前が経験した事だろう、と。





では、テオは?

あの血に塗れた赤い部屋は?





ゆっくりと記憶を辿る。

そうだ
アンシェルが来た
彼は何をした?

彼が通り過ぎた後に、次々と"死体"が現れたのだ。
武器になるような物どころか、何一つ手にしていなかったのに。

ゆっくりと近づいて来、ソロモンの頬を撫でると何か薬を飲ませた。
口移しで。



その後は・・・・・
ソファーに移した自分を置いて、彼の言う"後始末"を行ったのだ。



その様子は、脳裏に焼き付いている。

ヒトが、それを構成する素の物質に戻っていった。
血と、肉と、骨に。

アンシェルの魔法としか云えない力によって。





そして―――――ソロモンは両手で顔を覆った。
"あれ"が起こった。





フランク、ウィルヘルムと立て続けに仲間を失い、残ったチャールズも一瞬で屠られたのを
見て取ったカサールが、狂った。
恐怖に頭から飲み込まれ、ただそこから逃れたいだけだったのだろう。

壁に飾られていた細身の刀を剥ぎ取り、大声を上げながら駆け出した。
呆然とソファーに座るソロモンに向かって。


彼がどうして、入り口から奥まった場所に居た自分に向かったのか解らない。
それはアンシェルも同様だったのだろう。
不意を突かれたように目を見開き、"風"を放った。

だが、"風"はカサールの頬を掠っただけで、彼の足を止める事出来なかった。
奇声を上げ、刀を振り上げる。

間を置かず放たれた第二波は、今度は違わず刀とカサールの頭部を吹き飛ばした。
走ってきた勢いのまま、カサールであったものが倒れこんでくる。



2/3程になった刀と共に。



それを受け止めたのは、大量失血で意識を失っていた筈のテオドールだった。
背中に欠けた刀身の大部分を沈み込ませ、自身とカサールの血で全身を赤く染めていた。


ソロモンを真正面から見つめ、そして笑った。


それは、見慣れた笑い。

寮の部屋で、目覚めると最初にテオドールが見せる笑顔だった。


その笑顔のまま、彼は何か呟き、崩れた。
そして、二度と動かなかった。



その瞬間、薬と快楽から意識を取り戻した。
正気に戻ったとは云えないだろう、半狂乱で叫びながら暴れたのだから。

アンシェルが鳩尾に拳を入れ、世界が暗転するまで喚いていた・・・・・





あの場で起こっていたこと。
全て見ていた。
理解は出来なくても、記憶はある。

ぽろりと―――――涙が零れた。

涙の訳は思い当たるものが多すぎる。
怒り、悔しさ、後悔、恐怖、それに悲しみと哀しみ・・・・・
その全てが正解だろう。

テオドールがあのような愚行に出た理由も、あの地獄から救い出してくれたアンシェルが
使った術もソロモンには解らない。



ただ。
自分が持っていたもの全てを失った事だけは解ったのだった。



















アンシェルが扉を開けると、ソロモンはベッドの上に身体を起こしていた。
室内は暗いままだ。
ベッドサイドのランプには手をつけなかったらしい。
月明かりだけが、アンシェルにはやや頬を紅潮させたソロモンの顔がはっきり見て取れた。

「・・・・・助けていただいて、ありがとうございました・・・」

低い声でそう礼を言うソロモンがアンシェルから視線を外し、すっと斜めを向いた。
ベッドについた自分の手を見つめる身体が、微かに震えている。
頬の赤みも増していた。

「熱があるのか」
「いえ・・・・・いいえ、はい、そのようです」

歯切れの悪い返事に、アンシェルは眉を顰めた。
ベッドサイドに立ち、額に手を当てようとすると、ソロモンはビクッと身体を引いた。

「す、少しだけです。さ、寒気が」

怯えた様な目と言葉遣い。
慌てて言葉を足す。

「寒気がしますので、一人で休ませて、ください・・・・・すみません」

アンシェルは何かを伺うように目を細めた。
そして、ベッドにもぐり込もうとするソロモンの顎を乱暴に掴んだ。

「ひあ・・・!」

ソロモンは両手で自分の口を塞いだ。
目を大きく見開き、身体をガタガタと震わせ、顔を紅潮させて。

アンシェルから逃れ、ベッドの端の壁に身体を寄せる。



ソロモンの上げたものは、嬌声だった。
見開かれた瞳は潤み、怯え以上に媚を含んでいた。

それを自覚したソロモンは目線を伏せた。
自分の中に沸き起こり、再び身体を掻き乱す熱を必死に押さえ込もうとする。

「・・・み、見苦しくて、すみません・・・!」


あの地獄をもう一度味わうなど・・・
もう二度と、あの屈辱は・・・!


ギリッと噛み締められた下唇から、血が零れた。
白いシーツに赤い花が咲く。
2つ、3つと。


「お願いですから、一人に・・・して下さい・・・」

立ち去ろうとしないアンシェルに、搾り出すように言う。
視線を上げる事は出来ない。

「・・・・・辛い、か?」
「いえ・・・・・大丈夫、です・・・ですから―――――」

ギシッとベッドの軋む音がした。
お願いです、と言いかけたソロモンが顔を上げる。
至近距離に、アンシェルが居た。

咄嗟に後ろに下がろうとしたが、壁に背を打ち付けただけだった。
アンシェルの手が喉の中心に刻まれた赤い印をそっとなぞる。

「ひああああっああっ・・・!」

腰を直撃する刺激。
その源を、アンシェルの腕を両手で掴んだ。
彼の瞳を真っ直ぐ見て、懇願する。

「お願いですから、やめて、下さい・・・・・お願いです・・・」

涙が零れた。

「僕を哀れと思うなら、止めて下さい・・・・・」

一筋、二筋と頬を伝う。
涙はソロモンの両手をも伝い、アンシェルの腕を濡らした。

「これが、そうか――――」
唸るような呟きと共に、アンシェルの腕が離れた。

しかし、その腕はソロモンの両手首を絡め取り、押し倒した。
掴んだ両手を、柔らかい金糸の上のベッドに縫い付ける。

「・・・!アンシェルっ!!」

ソロモンに圧し掛かったアンシェルの顔は、奇妙に歪んでいた。

―――ヤツの謂うとおりだ。
―――薬の所為だけでは、決して無い。
―――ヒトを惑わす色香。
―――それも、美しく、清らかで、聖なるものを、汚し、穢れさせ、犯したいと思わせる・・・・・
―――ヒトの心の奥底にある加虐趣味を煽る、危険な色香。

「お前は、自分がどんなに危険なものであるか、解っていない」
声が掠れた。

この誘惑に抗う事は、むつかしい。
アンシェルもそれだけ言うのが精一杯だった。
懸命に嫌がり首を振るソロモンに吸い寄せられる。

「嫌だぁぁぁっ、止め―――――!あああ・・・!!」

首の赤い痕に舌を這わせる。

「ああっ・・・ああ、お願い・・で・・・す・・・ぅあああっ・!・・アンシェル・・・!」

暴れるソロモンの襟を寛がせ、胸を肌蹴させる。
固くしこった右の突起を舌で転がす。
大きく身体を撓らせたソロモンのうなじまで舐め上げた。
ぴちゃぴちゃと音を立てて味わう。
首筋を通る青い血管が、ソロモンの鼓動の速さを伝えてきた。

激しく拒絶しながらも、身体は興奮している――――
アンシェルは満足げに笑い、己の薄い上唇を舐めた。





このままでは、最前と同じだ。
なし崩しに快楽に呑み込まれる。

ベッドを写す鏡には大柄なアンシェルに組み敷かれながら、
快楽に酔い浅ましい顔をした自分がいた。

ここに一振りの剣があれば、喜んで己の胸を刺し貫くだろう。
だが、剣はおろかナイフの1本も持っていない。
それどころか、唯一身に着けていた服でさえも、アンシェルに剥ぎ取られようとしている。


もう、あんな自分は見たくない・・・・・
もう・・・・・耐えられない・・・・・


こんな事ですぐに死ねない事は解っている。
けれど、上手く根元を噛み切れば失血死は望める―――――
ソロモンは大きく口を開き、舌を延ばした。





渾身の力を込めて噛み締めた口の中に、血の味が広がる。
だが、この血は、自分のものではなかった。

半ばまで切れ、ぼたぼたと血が流れ出す人差し指を取り出したアンシェルは、
呆然とするソロモンの頬を軽く叩いた。

「・・・馬鹿者が・・・」

"両手"で頬を挟み、額を寄せる。

「こんなことをして、どうしようというのだ」

口付けた。
ついばむ様なものから、次第に深いものに変わる。
されるがままだったソロモンの舌が、アンシェルのそれに絡みつくように応じ始めた。

「ん・・・んふっ・・・・・・んんぅ」

アンシェルはたっぷりと3分は堪能してから、ソロモンを開放した。
親指で濡れた唇をなぞられ、キスに酔っていた意識が戻る。

「アンシェル、指はっ!?」
慌てて噛み千切りかけた指を取る。

「何て無茶なことを!この様な場合、決して手を入れてはならないのに!!」
半裸で捲くし立てるソロモンを見て、アンシェルがくっと笑った。

「ヒトの顎の力を侮ってはいけま―――――え・・・?アンシェル、傷が・・・傷が」

ありません、と顔を上げ、大きく見開いた綺麗な青い目を向けた。
アンシェルは微笑んで何も答えない。

何度見ても、触っても彼の手指には全く傷が無かった。
見慣れた、大きい手・・・・・

再び顔を上げたソロモンに、言った。

「私の、宝物を見たくはないか?」