今夜も自室に戻ったのは日付が変わってから。
ソロモンは重い足を何とか引きずって、ベッドに倒れこんだ。
着替える気力も無い。

起き上がる様子のないソロモンに、部屋の隅から掠れた声がした。

「・・・おい、上着くらい脱いだらどうだ?」
「すまない、テオ・・・・・起こしてしまって」

相室の陽気なギリシャ人は起き出し、ベッドサイドのランプを灯した。
彼、テオドールは医学院ではソロモンの2期後輩になるが、実際は3つ年上だ。
このところ自分の身体をかえりみないほど院の実験・研究に没頭しているソロモンに
小言をいい、何やかやと世話を焼いている。

「そんなことは良いんだよ。それより何か喰ったのか?」
「・・・・・ん、・・・かった・・・」
「何だって?また喰ってないのか?!」

早くも寝息を立て始めたソロモンの身体を揺するが、意識が戻ってくる様子はない。
仕方ないヤツだと呟き、上着を脱がす。
毛布をかけてやりながら、気持ち良さそうに眠るソロモンの金糸を撫でた。
日中の穏やかな微笑みや柔らかい物腰もそうだが、眠っている姿は
まさしく地上の天使のようだと思う。

何度も撫でているうちに、ふと首筋に目が行った。
耳の後ろに、赤いアザ。
何だろう・・・・・

そっと襟足を覗く。
見えるだけでも3つの赤い花。



まさか―――――




始めは何か悪い病気を心配したが、これは。
ザアっと血が引くのが分かった。

自分も嫌がる商売女に何度も付けたものだ。
見間違うものではない。


「・・・・・ソロ・・モン・・・・・」


テオドールは低く呻いた。
その瞳に暗い炎が静かに熾ったことに、本人も気が付かなかった。









前 夜  ――1――








日が落ちてから、大分時間が経つ。
レストランも既に閉店し、開いているのは酒や女を提供する店だけだ。

ピガールの外れ、さして大きくない酒場でテオドールは酒を呷っていた。
かなりの長時間そして暴飲の為、その目は赤く濁っている。
ろれつが回らない、けれど大声で喚きながら、空になったジョッキを掲げた。
酔いの為、高く掲げた腕が大きく左右に振れる。

呑み始めた夕方から行動を共にしている、同郷で同級のアスガーがジョッキを取り上げた。

「おい、もういい加減にしろよ」
「・・・寄越せ・・・よ・・・」

アスガーは追いかけてくる腕をするりとかわしジョッキを酌婦に渡すと、
店の主人に目配せした。
目敏く気づいたテオドールが、更に大声で怒鳴った。

「まだ、帰らんぞ!もっと、もっと酒持って来いっ!!」
「テオ!」

アスガーは投げるように支払いを済ませ、足元の覚束ない酔っ払いを背負って店を出た。
足腰が立たないくせに、テオドールは滅茶苦茶な力で暴れる。
何とか路地まで引っ張って来るが、小柄なアスガーにはそこまでだった。

「もういい加減にしてくれ!何があったか知らないが酒で紛らわすなんてお前らしくもない!」
「・・・・・お前に、何が解かる・・・」
「解かりたくも無い!酒に逃げるなんて、最低だ!」
「・・・・・・・・・・ああ、オレは最低だよ・・ああ、そうさ」

薄汚れた石畳の路地にだらしなく座り込み、最低だ最低だと呟くテオドールの傍にアスガーは膝をついた。
いつも明るく、医学院でもリーダー格である彼の肩にそっと手を置く。

「どうしたんだよ、テオ?何があったんだ?」
「・・・最低だ・・最低だ・・・・最低だ・・・・」

肩を揺すっても、テオドールの自嘲を含んだ呟きは止まない。
アスガーは彼の左頬を、掌で力任せに叩いた。

「しっかりしろよ!来週早々には前線に送られるんだぞ!今からそんなことでどうするんだ!!」

テオドールの口角から、血が流れる。
口の中を切ったのだろう。
それを手の甲で拭うと、顔を上げた。


そこにはアスガーが見た事もないテオドールがいた。


「・・・行かないヤツも、いるじゃないか」

怒り・・・嘲り・・・悲しみ・・・だけではない。
様々な色が混ざり合った結果、黒くなってしまったというような、色々な感情が内包されているのに
表面的には無表情な顔。この複雑な感情が、一体誰に対して向けられたものなのかアスガーには解らなかった

しかし、テオドールのいう人物はすぐに頭に浮かんだ。

「ソロモンの事か」
「・・・・・どうしてヤツは行かないんだ?」
「お前が言っていたんだろう?あれだけ優秀なヤツを戦場なんかに行かせるのは言語道断だと」
「・・・そう、あいつは医学院創設以来の秀才と云われて・・・院に残って当然だ・・・」
「だろう?あいつは違うんだ。オレ等が卒業してすぐに戦場に行かなきゃならないのはショックだけど、
 こんなご時勢だ。仕方が無いだろう?」

「ああ・・・・・・・・・・ああ!そう思っていたよ、昨日まででは・・・な!」

昨日、何かあったのか?というアスガーの問いに答えず、テオドールはふいと顔を背けた。
唇が噛み締められている。

「テオ・・・・・・おい、テオ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・見ちまったんだよ」
「何を?」
「・・・・・・・」

何を怖がっているんだろう。
アスガーは両手で頬を挟んで、正面を向かせた。視線で促す。

「・・・・ソロモンの首に・・・・・」
「ん?」
「あいつの首筋に、接吻の後があったんだ・・いくつも・・・いくつも!!」

アスガーは拍子抜けした声を出した。

「そりゃあ、ソロモンだって破目外す事位あるだろうよ」
「・・・・・違うんだ・・・・」
「何が?」
「今のあいつにそんな時間も余裕も無いことは、同室のオレが一番良く知ってる」
「ソロモンが忙しいのは僕も知ってるさ。だけどお前だって、四六時中一緒にいる訳じゃないだろうが」
「・・・昨日、ゴールドスミスの館に行ったんだよ、ソロモンは。当主に呼び出されて!」
「だからって・・・」
「行く前にはそんなもの付いてなかったんだ!あいつはオレの目の前で着替えて行ったんだからな!!
 あいつは、当主のアンシェルに・・・・・!くそっ」
「・・・・・・」

アスガーは口をつぐんだが、テオドールの言うとおりソロモンが当主のアンシェル・ゴールドスミスに
抱かれたとは思えなかった。

ソロモンには決まった女性の影は感じられなかったが、誘えば酒場にも繰り出すし、
売春宿から揃って朝帰りという経験もある。

それにあの容姿だ。
更に加えて、極めて優秀な医師という肩書き―――――女性が放って置く筈が無い。

ゴールドスミスの館には、息女こそ無いがメイドを始めとして女性の使用人は大勢居る。
そんなところへ出掛けたソロモンに情事の後があったとて、何がおかしいと言うのだろう。
男に自分の所有の証を好んで付ける女も、昨今珍しくないというのに。

そんな思いが顔に出たのだろう。
アスガーを見て、テオドールは嗤った。

「お前と同じ事、オレだってとっくに考えたさ。因りによって当主との仲を疑うなんて・・・ってな」

テオドールは壁に寄り掛かりながら、ふらふらと立ち上がった。

「だけどな、ここ数ヶ月、ソロモンの様子がおかしいのも事実なんだよ。
 ゴールドスミスに配属が決まったのを報告に行ってから、院に残るって決まってから、
 あいつ、ずっとおかしいんだよ・・・!」

テオドールの目に光るものを見つけて、アスガーは息を呑む。

彼がどんなにソロモンの事を気にかけていたか、アスガーは知っていた。
本当の弟のように、いやそれ以上に細やかに気を配っていたのだ。

そんな彼だから、アスガーには気が付かない何かに気が付いたのかもしれない。

「・・・お前は確信してるんだな?」

こくりと頷く。

「認めたくなかった・・オレは自分の頭が狂ったのかと・・・あいつが、男に・・
 あんな・・・・でも、それで全て説明が付くんだ・・・・・」
「―――――何かの間違いって事は、ないのか?」

敢えて訊いたその言葉に、テオドールは顔を上げた。
その両眼に、恐ろしいと感じるほどの深い悲しみと強い怒りを湛えて。

押し殺した声でゆっくりと答えた。





「ゴールドスミスの赤い封蝋を見つめるあいつの表情、見た事あるか?」





アスガーは口を閉ざすしかなかった。
彼がいう光景を目撃した事は無いが、テオドールの激しい憤りを目の当たりにして、
ソロモンがどんな表情をしていたのか想像出来るような気がした。


だが。

テオドールの視線にあった強い力はみるみる衰え、その顔から表情が消えていった。
そして、アスガーが複雑だと感じた無表情に変わった。
その顔を、両手で顔を覆ったテオドールはずるずるとへたり込んだ。
オレは最低だ、と先程と同じ呟きが聞こえてきた。

その時やっと、アスガーはテオドールが責める"相手"を理解できた。


「あんな、あんな表情をしてたあいつに、オレは、オレは―――」
「・・・・・・」
「あいつの赤い接吻の跡を見た途端、欲情したんだ・・・!」
「・・・・・・」
「頭ん中で、あいつを裸に剥いて、嫌がるあいつを無理やり――――」
「もういい!もう止めろ!!」
「泣いて嫌がるあいつの姿に、抑え様の無い歓喜と快感を得ているオレがいるんだ・・・・・っ!」
「よせって!!」

テオドールはアスガーに縋り付いた。

「オレだって止めたい!・・・・・止めてくれよ・・・・・
 この頭をぶっ壊してくれたっていい!頼む・・から・・・このどうしようもない、
 獣じみた劣情を消しちまってくれ・・・よ・・・なあ・・・」




「やっちまえば、いいじゃねーか」
「そうそう、案外一発で興ざめしちまうかもしれねーし」

いつから居たのか。
路地の奥、街頭も無い暗闇に4人の男の姿があった。
見知った顔と気づき、アスガーは舌打ちした。
こんな奴らに聞かれるなんて!

彼らは、アスガーやテオドールと同じ医学院にかつて在籍していた、元学生だ。
親の財力と権力によって入学したものの、自ら招いた学業不振と素行不良によって
除籍処分―――表向きには家業を継ぐ為の自主退学だが―――を喰らった男たち。
フランク、ウィルヘルム、カサール、チャールズ―――院では"タマ無し"と嘲られていた。
親に命じられて、親の金で入学し、学ぶ気もないのに辞める勇気も無い。
ただ無為に時間を浪費していた男たちだ。

ろくに仕事もしない上に、家にも寄り付かずピガール界隈で昼間から酒を呑んでいると
風の噂で耳にしていたが、こんなところで出会うとは。
アスガーは座り込むテオドールをもう一度背負うと、大通りへ向かって歩き出した。


だが―――――4人が進路を塞ぐ。


「俺達とは口も利きたくないって、か?」
「返事くらいしようぜ、アスガー」

「テオドールは疲れてるんだ。そこを、退いてくれないか」

「余計辛いんじゃないの、テオにとっちゃさ」
「まだ、あのソロモンと同室なんだろう?」

「退いてくれ!」

4人は無理やり押し通るアスガーの背中に声を掛ける。

「なあ、テオ。今夜も大変だな。吐息もクるよなあ。耳にボロ布でも詰めけよ」
「オレが両手縛っておいてやろうか?我慢できねーだろ」
「溜まってんなら、イイ女紹介してやるぜ。おっと、男がいいんだっけな!」
「帰り着くまで、よ〜く尻押さえとけよ、アスガー!」

下卑た笑い声を上げながら、4人は口々にからかいの言葉を発する。
アスガーは相手にしても無駄を悟り、背中のテオドールの重みにふら付きながらも
足早に大通りを目指した。
聞こえているのか、いないのか、テオドールも無言だった。

街灯が作る光に輪にあと数歩のところで、その言葉が耳に入った。





「ソロモンもやるよなぁ。尻の穴で前線から逃れるなんてな」





後方でどっと笑いが起こった。
同時にアスガーの背が軽くなる。

振り返ったときには既に、ウィルヘルムが地面に倒れていた。
その身体に蹴りを入れようとしたテオドールに、他の3人が飛び掛る場面――――

踵を返そうとしたアスガーに、3人と揉み合うテオドールが怒鳴った。

「お前は来るんじゃない!除籍処分になるぞ!」

アスガーの足が止まった。
それを確認すると、テオドールは力任せに3人を引き摺り、共に路地の奥に消えた。







官吏を連れて戻ったが、4人とテオドールの姿は無かった。
残っていたのは、破れた上着と割れた酒瓶、壊れたゴミバケツ、それに幾ばくかの血痕。

この日以後、テオドールの姿は医学院からも寮からも消えた。














夜明け前に目が覚めた。
空気が冷たい。
毛布がベッドサイドに落ちていた。

これで目が覚めたのか――――
落ちてしまった白い毛布を肩に掛けると、ソロモンはベッドから下りた。
素足に床の冷たさが直に伝わり、ぶるっと身体を震わす。

もう、4日になる。
ソロモンは壁のカレンダーを見上げ、その視線を相室者のベッドに移した。
主のいない空のベッド。

テオドールはあんな風をしてその実かなり几帳面な性格だったので、
日中の彼のベッドは常にきちんと整えられていた。
寝相が悪いので、夜にはすぐに皺くちゃになるのだが。

いつもの見慣れている光景なのに、主が必ず帰ってくるとは限らないというだけで、
こんなにも違って見えるのだろうか。
月明かりを反射してぼんやり光るベッドは寂しげで、冷たい。

ソロモンはテオドールのベッドに腰を下ろすと、ぽふんと横になった。
頬に触れた毛布は、やはり冷たい。


「・・・テオ、何処に、いるんだい?」


呟いた途端、くしゃみが出た。

―――風邪なんて引いたらテオに何て言われるか
彼が言うであろう様々な小言が浮かび、苦笑した。

毛布を身体に巻いたまま、ソロモンはテオドールのベッドに潜り込んだ。