一条の光も無い、漆黒の中を漂う。


―――――目を覚まして……ソ…ジャー


その闇は身体に纏わり付き、僕を窒息させる。
大きく喘いでも、空気を吸い込むことが出来ない。


―――――起きて……さい…ソル……


その声は誰のものなのか。
この黒い世界に存在するのは、たった独り。
知覚出来るものは自分独りきりな筈なのに。


―――――……ルジャー………目を……


低い、男性の声だ。
さっきまで響いていた男の声とは、違う。

何だか、とても暖かい。
次第に身体全体を覆いつつあるこの闇は、氷のように冷たいというのに。

もっと、聴きたい。
その温もりが、欲しい。

身体を包まんとする闇に逆らい、腕を伸ばした。


―――――……ブルー!


そのはっきりとした声が伸ばした腕を掴み、力強く引き上げた。














真影  02














覗き込んでいるたのは、ハーレイだった。
普段では決して見られない、取り乱した様子だ。
ブルーが意識を取り戻したのを確認すると、愁眉を開いた。
ほうっと息を吐き、指先で眉間を軽く揉みながら「あまり驚かさないで下さい」と呟く。

自分を取り込もうとしていた闇の正体は判っていた。
だからあんな悪夢のような過去を、記憶の底から呼び覚ましたりしたのだ。
二度と思い出したくなど無いのに。

ふと、不安が過ぎる。
このところ"閉じている"事が常態となっている為、何か思念を漏らしていることは
無いだろうが―――――

「……ハーレイ…僕が呼んだ、のか?」
「いいえ。何度呼びかけてもお応えが無いので、失礼とは思いましたが勝手に
 入らせて頂きました」

そう言って、ハーレイは床に腰を下ろした。
視界から彼の姿が消えた途端、急に差し込んできた光に目が眩む。
それが天井の照明だと分かるまで、少し時間がかかった。
その明かりとひんやりとした背中の感覚が、自分が床で横になっていることを
教えてくれた。

上半身を起こしてみれば、入り口のすぐ近くだった。
部屋に入り、幾つも階段を降りていない場所―――――ここに座り込んだ記憶も、
どうしようもないほど眠いと感じた記憶も無い。
ということは、気を失ったらしい。

片足を立て、膝の上に腕を置いた。
そこに額を埋める。
酷い疲労感が襲ってきていた。

時計を見ると、あの騒ぎからあまり時間が経過していない。
最近は、自分が不在時のリーダー役を務める彼とて、まだ忙しい筈だ。
アレの片付けもあったろうに。
すまない、と謝れば、同じように床に座り込んだハーレイも謝罪の言葉を口にした。

「疲れているあなたをお独りでお帰しするのではなかった。私のミスです」
「僕のことより、皆を宥めるほうが先だろう。君が正しい」

ハッチでの騒ぎを思い出し、顔を上げさっと船内を"見渡した"。
大きな混乱は無いようだ。
皆も、表面上は、ほぼ落ち着いている。
ハーレイの"適切な処置"の所為だろう。
そのことを告げると、ハーレイは「少々やりすぎた感もありますが」と微かに笑った。



騒ぎは、凡そ一時間前、シャングリラのハッチで起こった。
アタラクシアから救出した新たなミュウの仲間を船内に迎え入れる事に成功し、
歓迎の意を込めて皆で出迎えた。
ミュウとして目覚めたばかりの少年はおどおどとした様子で、辺りを見回している。

「ようこそ。我々は君を歓迎する」

自分の外見が10代後半で止まってしまって以来、いつの間にかこれはハーレイの
役回りとなっていた。
救出で力を使い過ぎる所為もあるが、自分が出迎えることは殆ど無い。

ハーレイの落ち着いていて穏やかな物腰や声が、自分に今何が起こっているのかを
理解出来無い上に、とてつもない不安に飲み込まれそうな子供には効果的であったのだ。
それに、彼の風貌が父親を連想させるのだろうか。縋りついて泣き出す者もあった。

この少年も、おずおずとではあったがハーレイの差し出した手を取った。
制御出来ず周囲に溢れ出す彼の思念が、少し緊張が解けた柔らかいものに
変わりつつある。
その様子に、もう大丈夫そうだ、と意識を別に飛ばした。
自分が救わなければならない命は、まだ沢山あるのだ、と。

だから、反応が遅れた。

君を救出した我らの長、ソルジャーブルーの元へ案内しよう。
ハーレイのその言葉に少年の様子が変わった。
おどおどした態度は消え失せ、光の無い据わった目で正面を見つめる。

「……ソルジャー…ブルー…」

ぶつぶつと、繰り返し呟いている。
そうして、目覚めたばかりで使えないはずの思念波を、爆発させた。

―――――ヤメロ………!

ハッチに瞬間的に移動しながら、思念波で彼を包み込み――――握った。
それが精一杯だった。



少年の爆発した思念は飛散することなく収束し、消えた。
同時に、人の形を失った物体が、血と肉の塊となって崩れ落ちる。



一瞬の静寂の後、悲鳴が渦を巻いた。
音として響いたものも、声にならないものも。

逃げ出そうと出口に走る者、頭を抱えその場にしゃがみ込んでしまう者、等々
ハッチのみならず、船内は大混乱になった。

「落ち着け、落ち着くんだ!」

怒鳴るハーレイの指示にも従わない。
従えないのだろう。
皆、恐慌を起こした精神をコントロールすることが出来ないでいる。

―――――……静かに

そう呼びかけた。
中心部にいる子供たちの"目"と"耳"を覆いつつ、船全体を包み込んで大丈夫だと、
もう心配ないと語りかける。
優しく、幼子にするようにそっと。

―――脅威は去った
―――もう、大丈夫だ
―――私がいる、私が

皆が落ち着きを取り戻すまでに、そう時間は掛からなかった。
胸を撫で下ろしたハーレイが近づいてくる。
僕は傍でしゃがみ込んだままの若い仲間の腕を取った。

「怪我はないか?」

まだ仲間に加わって日の浅い、若い男性だった。
ただ、立ち上がらせようとしただけだった。





―――人殺し………!





脳内を貫くような、鋭い思念だった。
純粋な恐怖から発せられた、心の声。
それが、ようやく静まり始めていた皆の心を乱す。

鎮めなければ―――――それは解っていた。
彼を落ち着かせなければ。
恐怖は伝播する。物凄い速さで。

でも、動けなかった。
身体も心も、彼の"声"に縫い付けられたかのように。
動けない。
どうしても動くことが、出来ない。

ざわつき始めたハッチに、ぱんという音が響いた。
のろのろと視線を上げれば、驚いたように横を向いた男性と、彼の手首を掴み正対する
ハーレイの姿があった。

「落ち着かないか―――!」
―――……あ……あ…

ハーレイがもう一度彼の頬を張る音で、我に返った。

「止せ!ハーレイ!」

更に上げた、ハーレイの手を掴んだ。

「もう必要ない!」
「いいえ」

そうきっぱりと言い切り、向き直った彼は、驚くほど静かな目をしていた。
その波一つ無い湖水のような瞳。
けれど、その底に潜む彼の静かな、そして激しい怒りが見えた。

「……ハーレイ…?」
「彼には罰が必要です。言ってはならないことだ」
「しかし―――――」

叩かれたことで我を取り戻した男性も、己が何を口走ったのか、口走ってしまったのか、
そのことを理解していた。そして、酷く反省していた。

もういいのではないか、と向けた視線をハーレイは正面で受け止めた。
彼には罰が必要なのです、繰り返してそう言うと、掴んだ腕を振り払った。

「ソルジャーが助けて下さらなければ、死んでいたのは君だ。それは分かるな?」
―――…………はい…

噛んで含めるような言い方に、消え入りそうな小さい思念で男性は答えた。
俯いたまま、唇を噛んでいる。

「発した言葉は二度と戻らない。自分のしたことが理解出来るなら、顔を上げなさい」

少年は、苦しそうに上を向いた。
目尻から、涙が零れた。

そして、鈍い音がハッチ全体に広がった。





「まさか、拳で殴るとは。確かにやりすぎたな」
「はい。平手のつもりだったのですが………感情をコントロール出来ないとは、
 我ながら呆れました」

そういって頭を掻く仕草に、可笑しさが込み上げる。
だが、覆い被さる疲労が笑い声を立てるのも億劫なほど、全身を蝕んでいた。
笑みは形をとる前に霧散した。

顔を上げ、シャングリラの最上部にあるハッチを見やる。
不安に押しつぶされそうになり、震えていた少年。

「救えなかったな……」
「深層心理にかけられた強力な暗示でしょうか?」
「ああ。キーワードは………僕の名だ。僕がもう少し気をつけてやっていれば……」
「いいえ、チェックを怠った私の責任です」
「………人間たちは――――」

それほどミュウを排除したいのか。
あの少年、本当にまだ子供だった。
彼がミュウであることを知って、態々その'力'を目覚めさせた。
人型の爆弾として、我らの許に送り込むために―――!

それほど、ミュウを忌むのか。
自分たちには無い力を持つことがそんなにも…そんなにも許せないのか………

ふっと、身体が暖かくなった。
大丈夫ですか、と気遣うハーレイの柔らかい思念と肩に置かれた手。
それらが優しく、自分の立場を思い出させてくれる。


僕が怒りに飲み込まれてはいけない。
僕が絶望してはいけない。


「ありがとう、ハーレイ―――――君に鉄拳を振るわれた彼に怪我は?」
「少し口の中を切っていました」

このハーレイのことだ。
素直に謝りに行ったのだろう。

2、3日で治るでしょう。
先に立ち上がったハーレイが腕を伸ばした。

まるで夢の続きのようだと思いながら、その手を取る。
彼の手は、当然だが、暖かかった。

「医療班を呼びましょうか?」
「必要ない。僕は大丈夫だ」

ですがと、言いかけて口を噤んだ。
変わりに、ついと手を引く。

「では、お送りします」
「……何処へ?」
「きちんとあなたのベッドまで、お連れします」

もう20歩も歩けば着いてしまう場所を見て、言った。
それをあまりに真面目な顔で謂うものだから。
つい笑ってしまった。

わかった、頼むよ。
そう返すと、ハーレイも嬉しそうに笑ったのだった。