暗い階段に、苦しげな息遣いが響く。



手足がコンクリートにでも変わってしまったかのように、重い。
まるで自分の身体では無い様に感じる。



踊り場で立ち止まったソロモンは壁にもたれた。
その、何でもない衝撃で、ズキッと左胸が痛む。
重力に引かれずるずると座り込みそうになるのを、必死に堪えた。


落とした視線の先。
足元にぽつぽつと黒いシミが出来ている。

それが自分の頬から顎を伝い落ちた汗であることに気がつくまで、若干の時間を要した。
身に纏う白い服――――病院着だろうか――――も汗びっしょりになっている。


知覚した途端、その感触は急に鮮明になった。
こんなに汗が流れる感触、何年ぶりだろう。
何十年ぶりか。
シュヴァリエとなってからは、全く覚えが無いのだから。


身体を流れる汗、べたつく服。
本来なら不快な状況なのに、ソロモンが感じたのは、『懐かしさ』だった。





ヒトであった頃の感覚を懐かしむのか、この身体は。

ほぼ不老不死な肉体と引き換えに失ったものは無いと思っていたのに。

得たものの方が、少なかったとでも言うように。






今更・・・


ソロモンは顔を上げ、階段の先、光に縁取られたドアを見つめた。
再び視線を落とす事のないように、階段を昇り始めた。





daybreak04




街は既に光が満ちていた。
天を突く摩天楼のビル群が、黒々とした姿を晒している。

物干しとしか使用していないのだろう屋上には、幾本かのロープが渡されている他は
椅子が一つと錆びたドラム缶が転がっているのみだ。

ソロモンは足を引きずりながら、何とか椅子に辿り着く。
ドサッと腰を下ろした。
弾んだ息のまま背もたれに上半身を預け、右手を目の高さに挙げた。


ゆっくりと開く。
姿を現した2つの赤い石が朝日を受け、再び輝き出す。

ソロモンはうっすらと笑みを浮かべた。








もっと、もっと長い時間眺めていたかったが、身体は重力に逆らい続ける事が
出来ない程疲れてしまっていた。
手が膝に落ちる。

フッと笑ったソロモンは髪を掻き上げながら、背後のドアに向かって言葉を投げた。
「みっともない姿をあまりお見せしたくないので、こちらに来て頂けませんか?」

戸口でカタリと音がした次の瞬間、ソロモンの視界が白に覆われた。

「汗拭きなさい」

ネイサンは被せたタオルでソロモンの額をぬぐうと、そのまま首に落とした。
「まあ、風邪引くことは無いと思うけど」


ソロモンの手のひらから1つ石を摘むと、光に翳した。
「あの娘(こ)らしいと思わない?この色」


翳す角度を変える。
「全然くすんだところも無い、透き通って」


更に変える。
「赤い絵の具を溶かしたみたいに、綺麗な赤――――子供の色って言ったヒトもいたわ」




そうして、ともう一つを手に取る。
「こっちがアンシェル。これも彼らしいわね」

今度は翳すことはせず、左の手に乗せた。
「深い深い赤、というよりクリムゾンね。舞台に映える色よ」




二つの赤をソロモンに返す。
「どちらも本当に美しいわ。ねえ、そう思うでしょ、ソロモン?」
「はい、本当に・・・・・」



「じゃあ、これは誰のか解る?」
ソロモンの膝にネイサンはもう一つ赤い石を置いた。



ディーヴァのものより更に明るい、赤い石。



ジェイムズ・・・カールか・・・・・
いや、違う。
ソロモンの記憶にある彼らの結晶は異なる色味だった。

ジェイムズとカールはあれほど相容れない性質であったのに、死後のその結晶は驚くほど似通っていた。
まるで血液そのものが結実したような赤色。



3つ目の石はそれよりも数段明るい、華やかで軽やかな赤だ。



まさか、マルティン・・・?
だがこれも違うと、記憶が告げる。

では一体、誰だというのだろう・・・・・








「あなたよ、ソロモン」
「・・・・・え・・・?」

聞き返さずにはいられない言葉。
「何と、言いましたか?ネイサン」


肩をすくめて、
「多分、だけど」
「ですが、私は―――――」

ソロモンの台詞を遮る。
「そう、まだ死んじゃいない。でもね」

ちょっとごめんなさい、そう言いながらソロモンの肩を肌蹴た。
「この左胸の傷、治ってないわよ」

ソロモンも石を持っていない方の手で触る。
目覚めてから何度も激痛が走った箇所だ。
そこは、確かに不自然な形でへこんでいた。

「すぐに回復しちゃう私たちの身体なのに?まるで、必要なパーツが足りないみたいな形じゃない?」

ネイサンの差し出した明るい石が丁度嵌りそうな形状の傷。

でもここは・・・
そっと、触れる。



「あなた、自分がどうして助かったと思う?」
「・・・・・・・・・・分かりません」
「ワタシも同じ。あなた、小夜の血を受けたでしょう?一年近くも"ポッド"に入っていたのに左半身に残ってた傷は酷いものだったもの」



場面が、蘇る。
ほんの少しの甘さと酷い痛みを伴って。

そして、それは小夜との最後の記憶だ。



血を越えて、シュヴァリエになることを拒まなかった小夜
立ち去る自分の名を呼んでくれた
ソロモン、と
あの声を忘れることは、この先無いだろう


愛おしさがこみ上げ、胸の奥が苦しいようにも暖かいようにも感じる。





彼の表情にネイサンは苦笑するしかなかった。
「それだけ傷付けられても、やっぱり小夜がいいのね」

ソロモンの背後に回ったネイサンの影がすっと短くなる。
腰を屈め、後ろから抱きついた。
柔らかく、気遣うかのようにそっと。

「アンシェルだと思うのよ、あなたを助けたのって」

肩口に顎を乗せた。
「何度も言うようだけど見てないから。状況証拠ってヤツからのワタシの推測。
 妄想って分類されちゃうかもしれないけれど、聞いてくれる?」

言葉を返さず、3つの石から目を離さないソロモン。
ネイサンは続けた。