daybreak02





間もなく日の出を迎えようというNYの一隅。
受付兼待合い室に診察室、そしてたった一人の医師であるサトーが寝泊まりする部屋と
キッチンしかない小さな診療所は天を突くビル群の谷間にあった。


まだ暗いキッチン、入ってきたのはネイサン一人だった。
サトーは咥え煙草で、椅子が二つしかないダイニングテーブルに頬杖を付いていた。

「終わったのかい?珈琲落としてあるよ」
「ありがと、サトーちゃん・・・て、んもう、15分たったら保温を切りなさいって言ってるでしょ。
 ひっどい匂いよ」
「冷えた珈琲よりはいいけどねえ」
「ああ嫌だ嫌だ、これだから戦場帰りは駄目よねぇ。鼻も口も麻痺してるんだから。
 麻痺しっぱなしで治らないし。今度美味しいフレンチレストランに連れてったげるから、少しは
 舌のリハビリをなさいな」
「はいはい。はりきってリハビリさせて頂きます」
「宜しい。じゃ、野戦病院仕込の妙なる美味な珈琲を頂戴。ミルクと砂糖はたっぷりね。
 そうじゃないと飲めたモンじゃないから」
「・・・散々文句を付けておきながら給仕しろとは、なんとわがままな」
「私はアーティストなの。物分りが良くてどうするのよ。そ・れ・と・」
「あっ」
「この咥え煙草もよしなさい」
「少しは年寄りを労わったらどうかね。誰かさんのお陰で貫徹もしようってのに」
「徹夜の一晩や二晩どうってことないでしょ。中東じゃ三日休み無しだって珍しくなかったって
 この前言ってたじゃないの」
「そんな大昔の話・・・わたしゃ、もう五十の坂を越えようってんだから、
 たまには労わってくれたまえ」
「年は取りたくないものねえ・・・ああっ!」

また煙草に火をつける!と再び奪いに伸びたネイサンの手から、サトーはするっと逃れた。

「随分ピリピリしてるねえ」
「自覚してるわよ。ぜぇんぶ分かってての八つ当たり」
「ああそうかい・・って納得はしないぞ。おじさんは傷ついた」
「何だか疲れちゃって―――こういう悲劇っぽいの、わたし向きじゃないのよ。
 どちらかというとファルスなキャラじゃない?わたしって」
「・・・・・そう、かねえ」
「大体、演出家はやっぱり舞台に立っちゃいけないわ。どんなにいい台本でも台無し」
「そんなもんかねえ」
「そうよ」



しばらく二人は黙って珈琲をすすっていた。
一気に二本の煙草を吸い終え、三本目に手が伸びたところでぴしゃりとやられた。
サトーは眼鏡の奥からじろっと睨んだが、叩いたネイサンはどこ吹く風といった様子。

煙草を諦めたサトーはふうっと大きなため息を一つして立ち上がった。
そして、小さな診療所の更に狭いキッチンにはかなり不似合いな本格的ビリヤード台で、
玉突きを始めた。



カツン

カン

カツン

カン
カン
カン



ネイサンは言葉を続けない。
サトーも促さない。



キッチンは次第に明るさを増し、うっすらではあるが二人の影が現れ始めていた。

再び煙草を咥え、無言でキューを操るサトーを、見るとも無く眺めていた
ネイサンの記憶が時間を遡る。















抱きしめられたソロモンはそっと、だが強い意思を込めてネイサンの胸を押し戻した。

「僕は、大丈夫です、ネイサン」
「ホントに?泣いてもいいのよ?」
「ええ、本当に大丈夫ですよ」
柔らかに言う。
ネイサンは不承不承ソロモンを腕から解放したものの、隣に陣取り肩に腕を回した。


「ディーヴァもアンシェル兄さんも、一度ならず、自分のこの手で殺そうとした相手ですから」
「覚悟は出来てたってコト?」

「・・・・・ええ・・・」
俯き言い澱んだソロモンは、しかし、かむりを振った。

「いや、やっぱり違いますね。冷たい言い方かもしれませんが、小夜が生きていたという
 喜びの方が大きいのです。今の僕にとっては」
顔を上げながら、微かな笑みをネイサンに向けた。


「もう、すっかり小夜のシュヴァリエ、なのね」
ディーヴァとその子供達に付っきりになっちゃったから、その辺の経過は知らないけど、
と腕を組む。

「すみません。ですが―――――」


更に言い募ろうとしたソロモンを遮ったのは、低音でゆっくりと紡ぎ出されたネイサンの言葉だった。


「アイアン・ウィル」


「?何です?」

「アンシェルがあなたのことを良くそう形容してたのよ」
先程の低音は姿を消し、いつものネイサンの声色に戻っている。

「本人目の前にして言うのも何だけど、こんな優男の何処が?って思ってたんだけど」

口調も内容もいつものネイサンだ。
思わずソロモンは吹出した。

「今なら分かる気がするわ」
再び肩を抱く。

そして同じような蜂蜜色の柔らかそうな頭をソロモンの肩に預けた。
「ホントに頑固者ね、ソロモン」

「すみません」

「でも、その鉄の意志に後悔は無いの?」
「・・・・・・・・・・全く無い、と言えば嘘になりますが―――――」
「一度、決めたことだから?」


ソロモンはもたれている腕を外すと、大きく向き直り、きっぱりと言い切った。
「いいえ。自分の意思で、決めたことですから」

そしてまっすぐ目を見つめて、








「後悔はしません」









「そう」


ネイサンはため息と共に頭を軽く振ると、言った
「じゃ、最初で最後の、俳優ネイサン・マーラーの独演会、楽しんで頂戴」