ねっとりとした空気が漂う。
アジア特有の、湿気の多い生暖かな空気は、しかし、何処か優しい。
何処からとも無く、季節はずれの金木犀の香りが流れてくる。

薄曇りの中、ぼんやりとしたおぼろ月が路を照らす。
細い運河にかかる石の橋を渡り、舗装されていない土の路を歩いた。
彼の元へ。










―――if 03










滞在するホテルに戻り、まず、シャワーを浴びた。
心地好いとは云え、慣れない濃密な空気に僅かだが汗をかいた。

―――散歩に行きませんか?

そう誘ったソロモンに、部屋で待つと言ったアンシェルの方が正しかったようだ。
空調の効いたホテルの部屋で、ほうっと一息つく。

小さいながらも作り付けのバーカウンターから、ワインとグラス二つを手にする。
ソロモンはガウン一枚を羽織った姿で、バルコニーに抜ける窓辺に向かった。





おぼろな月の光が差し込むだけの室内。
少しだけ開いた窓から、先ほどまでソロモンが楽しんでいた金木犀の香りと、
運河の水音が入り込んでいる。

籐で編まれた東洋風のカウチに身体を預けるアンシェルの姿が、
淡い光の中に浮かび上がっている。
シャワーを浴びたのだろう、ソロモンと同じようにガウン一枚だった。

漆黒に染められた絹は月の光を反射し、不思議な光沢を放つ。
そこに、幾重にも重なる深紅の花弁を持つ大きな牡丹が刺繍されていた。
まるでこの為にあつらえたかのように、彼にしっくりとくる。






彼のようになりたい。
いや、彼にその人になりたい。
かつて、そう願ったことがある。

何者にも怯まず、常に自信を持って行動する。
どんな場合でも決して慌てることが無く、冷静に対処する。
誰に対しても、公平さを失わない。

そして、己の定めた主を、何よりも、自らの命よりも大切に、した。

自慢の兄だった。
憧れずにはいられなかった。
自分が、彼であったらよかったのに………
幾度そう思ったことか。

けれど、今は違う。
彼が、尊敬し、敬愛する兄であることには変りが無い。
でも、彼その人になりたいと願うことは無くなった。

もしも、願いが叶ったら、こうして彼を見つめることが出来なくなるから。
苦しいほど、抱き締められることが出来なくなるから。











「ワインは如何ですか、兄さん?」

そう言いながら、サイドテーブルにグラスを置き、注いだ。
そっと差し出し、自分も傾ける。

つい、と、手を引かれた。
抱かかえられながら、顎を取られ、口付けられる。

籐のカウチに横になるアンシェルの上に重なる。
互いに目を閉じていないため、僅かな距離で視線が絡み合う。

アンシェルが笑った。
ソロモンも微笑む。

少し唇を開き、兄の中へ紫色を流し込んだ。
くんと、兄の喉が鳴る。

逸れた唇が、更なる行為を求めて、うなじを這う。
それをソロモンは止めた。

もう少し、月を見ませんか?
上体を起こし、夜空を見上げた。

白い薄雲を纏って、ぼんやり光る、おぼろ月夜。

ここからは望めないけれど、見てきた光景が思い浮かぶ。
ゆらりと揺らめく柳と、運河に沿って隙間無く建つ低い瓦葺きの家屋。
運河にたゆたう小さな船。

本当に綺麗だったんですよ、と視線を戻せば、自分をまっすぐに見つめる兄がいた。
口角が少し上がっている。

そうか。
アンシェルは応えて、彼が見ていた月よりも美しいと思った金糸を、胸に抱えた。

肌蹴た胸に直に触れ、ソロモンは息を吸い込む。
自分と同じ匂いがした。
ホテルの石鹸の香りだった。

耳を押し当てた。
とくん、とくんと、規則的な鼓動が聴こえる。

鼻の奥がつんとした。
おぼろの月が、更にぼやける。





――ああ、生きている
――生きてくれている





堪え切れずに、涙がぽろっと零れた。





――何と幸せなのだろう






胸の冷たい感触に、アンシェルが覗き込む。
涙を見られることが何だかとても気恥ずかしくて。
ソロモンは見られないように、兄のうなじに顔を埋めた。

「明日は一緒に行きましょう」
「ああ」
「約束ですよ」
「………わかった」

自分で言った"約束"という言葉に、再びつんとするものを感じて、
ソロモンはアンシェルにキスをした。