webclap 03 2008up
目を開けた。 やっぱりまだ部屋は暗い。 枕の下が定位置の、アナログな目覚まし時計を引っ張り出すと、 針はまだ夜が明けるまでに大分あることを教えてくれた。 背中が冷たい。 汗を掻いたらしい。 また、あの夢だったから―――。 『誰かがあなたを愛してる』 ひんやりとした床に素足で下りる。 パジャマを替えなくちゃ。 今度の週末は運動会だから、風邪なんて引いていられない。 父さんも、母さんも楽しみにしてるって云ってたんだから。 僕は足を顰めてクローゼットに近寄り、そうっと引き出しを開ける。 物音を立てないように着替えていると、部屋の中に光が差し込んだ。 「ハーレイ…?」 「父さん、ごめんなさい。起こしちゃった?」 「いや、違うよ」 どうしたんだい?と云いながら、父さんが入ってくる。 隣の部屋の母さんを起こさないように、やっぱり足音を立てないように そろそろ歩いてきた。 着替えを終えてベットに上がった僕の隣に、腰掛ける。 どうしよう…。 前にあの夢の話をしたときの父さんと母さんの顔が、頭に浮かぶ。 答えられない僕の頭に、ぽふんと大きな手が置かれた。 「眠れないのかい?」 「………………」 「父さんもなんだ。少し呑もうと思っていたんだけど、独りじゃな……  ハーレイが付き合ってくれないかな?」 ぱっと顔を上げた僕に笑いかける。 「旨いホットミルクを淹れるから。少しだけブランデー入りだ」 母さんには内緒だぞ。 そう言ってウインクして見せた。 キッチンの小さいテーブルに腰掛けた。 湯気が立つマグカップと深い琥珀色の液体が揺れるグラスを手にした父さんが 僕の向かいに座る。 差し出されたカップから立ち上る香りは、慣れた甘いものだけではないものだった。 両手で包み込むようにして口元に運ぶ。 ちらりと父さんを見れば、片手で持ち上げたグラスを僕に向かって軽く掲げた。 まだ9歳の僕には早過ぎる乾杯だけれど。 少しくすぐったい気持ちで、僕もマグカップを持ち上げる。 「乾杯、父さん」 「……乾杯、ハーレイ」 目の前で、父さんが笑った。 少し白髪の目立つ風貌の目尻に年相応の皺が寄る。 僕で最後だと云った。 養父になれるのは、お前が最後だろうと。 だからだろうか。 父さんは時々こうやって僕を甘やかしてくれる。 こくんと口に含んだ。 ぷん…と鼻に抜ける香りと少し苦みを含んだミルクは、正直言ってあまり 美味しいとは思えない。 感想をそのまま口にすると、ぷっと吹き出す。 「まだまだ子供だなあ…!」 ミルクを啜りながら、くつくつと笑い続けてる父さんを見てた。 僕は―――父さんが大好きだ。 だから、心配なんて掛けたくない。 でも…。 何も訊かないでまっすぐに見つめる柔らかい視線に、僕を気遣う思いを 痛い程感じて…。 「―――父さん、僕、また…あの夢を見たんだ」 父さんの表情が、微かに動く。 ごめんなさい…。 僕は言葉を続けた。 また、あの子だった。 銀の髪の、あの子なんだ。 同じ白い服を着て、首におかしな輪を付けて。 裸足で、その足は汚れていて。 細い腕や白い頬に、怪我してた。 今日も泣いてた。 いつものようにぼろぼろ涙を流しながら、唇を噛んで。 独りで、たった独りで膝を抱えてた。 父さんの唇が開きかけて、止まる。 云いたいことを押し止めたんだ。 前にも訊かれたことだから。 「僕は寂しくなんか無いよ…!全然!!」 そんなこと思った事なんて無い! 1回も無いよ! 「ホントだよ!」と立ち上がった僕に、ある仕草をしてみせる。 唇に人差し指を当てて、僕の後に視線を投げた。 気が付いて、僕は思わず口を押さえる。 「母さん、起きちゃったかな?」 「多分、大丈夫だろう」 座るように示しながら、父さんが微笑んだ。 僕を落ち着かせる穏やかな笑顔で、話の先を促す。 「寂しいなんて思ったこともない。だから夢のあの子は、僕じゃないと思う」 前に父さんはそう訊いてきたのだ。 何か寂しいことや、悲しいことが有るのかい?って。 あの銀の髪の子が、僕の心の中を表していると思ったのだ。 その時も僕は否定した。 「じゃあ、本当に泣いている子が居るのかな?」 「分かんないよ……でも―――」 あの子の声が、まだ耳に残ってる。 寂しい…寂しい…って。 僕は自分で自分を抱き締めた。 そうしなくちゃ僕が震えてしまう程、あの子の声は悲しそうだったから。 きゅ…と唇を噛む。 「………………」 するとゆっくり立ち上がった父さんがテーブルを回り込み、僕の横に立った。 「ハーレイ…」と呟き、腕を取る。 促されるまま立つと、広い胸に抱き締められた。 温かい腕の中。 小さい頃は良くこうされたけれど―――久しぶりの父さんの匂いを 胸一杯に吸い込む。 「本当にそんな風に泣いている子が居るのなら、それはとても悲しいことだね」 「……うん…」 「可哀想な子だ」 「…うん…」 「でも父さんは、良かったと思ってる…」 「良かった…?」 「そうやって独りで泣いている子が、ハーレイじゃなくて良かった……」 「………………」 「酷い父さんだね…」 「ううん…そんなことない…―――でも、可哀想だよ」 「…そうだね」 「独りで泣いていても、誰も慰めてくれないし…抱き締めてくれないんだ、  あの子…」 「そうだね…」 「…僕が…してあげられることはないのかな?」 「うーん…ムツカシイけれど―――」 こうやって、ハーレイが抱き締めてあげればいいんじゃないのかな。 独りじゃないんだよって。 「僕が…?!」 がばっと顔を上げた。 僕を見下ろして、父さんが笑っている。 あの穏やかな笑みで。 いつも僕を導いてくれる、優しい笑顔で。 何かがすとんと腹の奥底に落ちた気がした。 「ハーレイには分かるんだろう?その子のことが」 「うん」 「夢の中でしか会えなくても、そう云ってあげれば、その子の寂しいのも  少しは消えるかもしれないよ」 「そうか…!僕が友だちになってあげれば良いんだね!」 父さんがこっくりと頷く。 「ハーレイが今出来ることをしてあげたら良いんだよ」 「分かったよ!」 ぴょんぴょん飛び跳ねる僕の額にキスをすると、ベッドに戻るように云った。 送っていこうか?とからかうように笑う。 「大丈夫!もうそんな子供じゃないもの!」 「…だな」 お休みなさいと伸び上がってキスをして、駆けだした。 またしても「しーっ」と窘められ、僕は舌を出す。 テーブルからグラスとマグカップを片付けながら、父さんは目を細めた。 「ゆっくりお休み…!」 「ありがとう、父さん!」 囁くように応えて、僕は足音を立てないよう気をつけながら階段を駆け上がった。 ベッドへと気が急く。 早く眠って、あの子に伝えなくちゃ…! そうっと、でも出来るだけ早くベッドに潜り込み、布団を引っ張り上げた。 ぎゅっと目を瞑る。 初めて呑んだアルコールが効いたのか、すぐに睡魔に襲われた。 意識が落ちていく。 眠りの中へ。 伝えなくちゃ、あの子に。 早く、早く。 独りで泣かないでいいんだよって。 僕が傍にいるからねって。 ―――待っててって。