今夜も聴こえる。



『私はどうしたら良いの?
 この想いをどうしたら伝えられるの?

 誰か……
 誰か教えて―――!』










天使の笑顔










連日脳内に響くその声にブルーはため息をつくと、
聴こえてくる方向に意識を飛ばした。
発生源は、アタラクシアの中心に建つ高層ビルの最上階近く。

ビル上空で意識体となり、街を見下ろした。
自分たちミュウを決して受け入れようとしない人間たちが造った都市、
アタラクシアの夜は、とても美しかった。
ブルーは苦く笑うと、声の源の部屋へ飛んだ。

室内は、既に照明が落とされていた。
主と思われる少女が、ベッドでうつぶせになっている。
規則的に上下する背中が、よく眠っていることを示していた。

近づいてみると、寝間着も着ておらず、頬には涙の後。
泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。

涙の後にそうっと触れた。

自分のところまで"声"を飛ばしてきたのだ。
ミュウかもしれない。
彼女を調べた――――ミュウの片鱗は全く感じられない。

涙の後を残す頬はピンク色で、顔立ちは大人には程遠い。
まもなく成人検査を迎えるくらいの年頃だろう。


―――こんなに泣いて………
―――夢の中ででも叫ばずにはいられない程の想いも
―――もうすぐ消えてしまうんだよ
―――想いだけじゃない、全て………


新しい世界にすんなり適応する為に、記憶の全てを消去する。
それは本当に喜ぶべきことなのか、とても哀しいことではないのか。
ブルーは指先で涙の後をなぞった。

すると。
ぱちっと音でも聞こえてきそうな勢いで、瞼が開いた。
驚いたブルーが姿を消す間もなく、むくっと起き上がる。
全身を青白い光で包んだブルーを認め、問うた。

「あなたは、だれ?」

騒がれては、まずい。
彼女の中から自分に関する記憶を消そうと、ブルーは手を伸ばした。
その指の先で、少女はぱあっと笑った。

「分かった!天使ね!」

両手を合わせ、瞳を輝かせている。
花が咲いたようだ、ブルーは思った。

「――うん、そうだよ」

自分の口から出た言葉が信じられない。
彼女の記憶と、自分の姿を即刻消さなければならない筈なのに。

少女はベッドから降り、ブルーの後ろに回った。

「でも、おかしいわ。あなた、羽を忘れて来たの?」

腕を組み、右手の人差し指を顎に当てて。
眉間に皺を寄せた、むつかしい顔でそう言う。
可愛らしい仕草に思わず微笑んだ。


―――僕のことを忘れてもらうのは、もう少し話してからでもいいだろう


「……羽はね、ほら―――」

ブルーは思念を背中に集めた。
白銀に輝かせ、緩やかな放物線を形作る。

ブルーの背中から、身の丈の2倍はある、1対の大きな羽が現れた。

こんなに大きいから、たたんであるんだ。
ブルーのその言葉に、少女の笑顔は更に輝く。

「…きれい……。ねぇ、空を飛べるの?」
「もちろん」

くすっと笑って、ブルーは思念の羽を動かしてみせる。
それを楽しげに見ていた少女だったが、その顔が曇った。

「私にもこの羽があれば、あの人の許に行けるのに…」

自分を呼んだあの声を思い出す。
『この想いをどうしたら良いの?!』

気付かれない様、彼女の心に、そっと触れた。
切ない想いが奔流のように流れ込んでくる。
胸に痛みを覚えるほどの、想いだった。

同時に1人の少年の姿も。

少女が胸の前で合わせていた両の手を、きゅっと握り締める。
涙の気配がした。

その人に会いたいの?
そう問えば、今にも涙が零れそうな瞳で、こっくりと頷く。

その少年が、好きなんだね。
少女は、もう一度頷いた。

「学校の友達?」
「………」
「幼馴染?」
「………」
「どこで逢ったの?」
「………」
「彼の名前は?」
「………」

少女は俯いたまま、その全ての問いに首を横に振って答えた。
ブルーは少し屈みこみ、少女の顔を覗き込む。
大丈夫、僕に教えて―――そんな思いをこめて、視線を合わせた。

「………………夢に、出てくる人なの……」

ぽろりと涙が零れた。

「夢?」
「おかしい?変だと思う?!」
「………」
「パパとママは変だって!」
「……………」
「一度も会ったことがない人が好きだなんて、おかしいって!!」

ぽろぽろと涙が溢れた。
顔を振る度に、頬を伝い顎に集まった雫が落ちる。
それは実体ではないブルーの身体を通り抜け、絨毯に浸み込んだ。

「大丈夫、ちっとも変なことじゃないよ。大丈夫」

そっと抱き寄せて、背中をトントンと叩く。
昔、幼いブルーが母にそうして貰ったように、優しく、優しく。

「それはきっと、君が未来に出会う人なのかもしれないね」
「……本当?」
「僕は神様じゃないから、分からないけれど―――君がそんなに想う人なら
 逢えるんじゃないかな、きっと」
「そうかしら…………うん、そうよね!」

少女は顔を上げた。
至近距離にある、ブルーの紫の瞳をまっすぐに見つめる。
生気に溢れ、未来への希望にキラキラと輝く、意志の強い青い瞳。
それは、とても、とても綺麗だった。
ブルーが憧れる、地球のようだった。





ブルーの瞳が赤みを帯びた。
少女の足から、力が抜ける。
身体を預けてくる。

「何だか…眠い……」
「もう遅いからね。さあ、休もう」
「…うん」

抱き寄せたまま、ベッドへと向かった。
素直に横になった少女に毛布を掛ける。
ベッドサイドに跪き、彼女が眠るまでそっと毛布を叩いた。

「さあ、おやすみ」
「…う…ん……ありが…と…」
「うん」
「あ…なた…の名前……天使の………」
「――――おやすみ」

コトリと、頭が沈んだ。
完全に眠らせた。

ブルーは素早く彼女の記憶の一部を消した。
立ち上がりながら、額にキスを落とす。



―――君の未来は、僕たちの歩む道とは異なるけれど、その素敵な笑顔を消さないで
―――いつも笑っていて
―――悲しくなったら泣いてもいい
―――でもその後は笑ってごらん
―――そうすれば、きっと大丈夫
―――君のその輝く瞳は、いつも光に溢れることだろう



「笑っていて―――――」

君の笑顔、好きだから。
そう呟いて。
ブルーの姿は消えた。











月日は流れて。

アタラクシアの高校の司書をしているフィオナは、仲の良い同僚に呼び止められた。
オレンジ色の夕日が、辺り一面を染め上げている。

「聞いたわよ、フィオナ!お相手が決まったんですって?おめでとう!!」
「違うわよ。相手のデータが送られてきただけ」

フィオナは足を止めず、同僚も並んで話し掛けながら歩いた。

「じゃあ、決まりってことじゃない。マザーのはじき出した相手だもの、
 あなたにぴったりに決まってるわ」
「逢ってみなくちゃ分からないでしょう?」
「そんなこと言って―――楽しみなくせに!」
「あ、バレてる?」
「当然!ねえ、どんな人なの?」
「年は3つ上。大学の助教授。趣味はスキーと読書。但し、伝記は除く―――」

すらすらと相手のプロフィールを述べるフィオナを、同僚の女性教諭は遮って言った。

「顔は?」
「わかんない。写真は見てないの。それ位の楽しみはとっておかないと」

恋愛の醍醐味を少しは味わいたいじゃない?
そう言うフィオナの肩をがしっと掴んで、立ち止まらせる。

「フィオナ!顔は人間の最重要パーツよ!!」
「………貴重な助言として、在りがたく拝聴しておくわ」

肩をすくめ、再び歩き出す。

「実はこれから逢うのよ―――来る?」
「聞くだけ野暮!あんたの武器はこの笑顔なんだから。
 最初が肝心よ、ガツンとかましてやって!ほら、笑った笑った!」
「うん!」

二人はにこやかに笑い合い、小走りに正門に向かう。
石造りの低い門も夕日に染められ、オレンジ色を纏っていた。
その門近く、独りの青年を見つけたフィオナの足が止まった。



―――彼だ
―――見つけた



彼が、データの相手に違いない。
顔も知らない相手なのに、フィオナは確信していた。

呆然と青年を見つめ、口を押さえた。
溢れる想いに、胸が塞がる。

彼のデータは、空で言えるほど何回も何十回も読んだ。
自分との接点は全くないはずなのに………
胸に込み上げるのは、苦しいほどの思慕と懐かしさ。

その青年が振り返り、フィオナを認めると大きく手を振った。
同僚の「彼なの?!」の台詞に答えることすら出来ない。

―――ああ、本当に逢えた!本当に……!

―――伝えなければ………!
―――あなたの云うとおりだったわっって……!

いったい誰に?
その問いに答えるようにフィオナの記憶の中で、白銀に輝く一対の巨大な羽が
広がった。

―――そう、あなたに……

翼と同じ髪を持つ青年。
私に笑ってと言った、あなた。

―――ありがとう、ありがとう……

姿も、微笑んだ顔も浮かぶのに、あなたのことを何と呼んだらいいの?
名前が分からない…
どうしても、伝えたいのに……!

―――ありがとう……天使の…

全身を包んでいたその色は、彼にとてもよく似合っていた。
淡く柔らかい光。

―――天使の…天使のブルー…!!
―――私、会えたわ!





















「―――あ」

急に立ち止まった長に、ハーレイが怪訝そうな目を向けた。

シャングリラの長い通路。
天井近くの壁の一点を見つめたまま、歩き出そうとしないブルーに声を掛ける。

「どうかされましたか、ソルジャー?」
「――いや」

言葉とは裏腹に、口元に刻まれた微笑。
それは久しぶりに見たブルーの笑った顔で。
どんな良い事があったのか、問い質したい気もしたけれど。
もう一度訊けば、きっと教えてくれるのだろうけれど、そうすることで
彼の笑顔が消えてしまうのは勿体無いと思った。

理由など良いのだ。
彼が笑ってくれれば―――

「参りましょうか」
「ああ」

再び歩き出したブルーの後を、ハーレイは半歩送れて続いたのだった。