いつもの習慣。

勤務時間終了後ブルーの私室を訪れたハーレイはにこやかな笑顔と共に、
2つのグラスと首の細いボトルを1本渡された。
さあ行くよ、の声が耳に入った途端、ふわりと身体が浮遊する感覚。
思わず目を瞑った。














― ニーニョ sideH―















頬に風を感じ、瞼を開けた。
ハーレイは息を呑む。

青く淡い光を放つ薄い膜の中、身体が空を飛んでいた。
瞬く星々に幅広の三日月が輝く夜空を、球を描く繭のような膜に守られて滑空している。
視線を落とせば、足元に広がる白は………
ここは、まさか……!

くすっという笑い声に、正面を見た。
藤色の長いマントを風になびかせて、自分と同じように宙に浮くのは、ミュウの長、ソルジャーブルー
その人であった。

「夜の散歩にようこそ、ハーレイ」

月の光に浮かび上がる白い顔は、マントと同色の瞳を細めて、可笑しげに笑っていた。
足の裏に固いものを感じない、その感覚に戸惑いつつも、ハーレイは問う。

「ソルジャー!ここはまさか―――――」
「そう。シャングリラの上部だよ。ぎりぎりシールド内部だから、大丈夫」

何が大丈夫なんです!
ハーレイは、その叫びを飲み込む。

目を閉じて、銀の髪を風になぶらせているその姿が、とても綺麗で。
強すぎない月の光を浴びる顔は、微笑んでいて。
本当に気持ち良さそうで。
ハーレイは言葉を失う。

ブルーの作る繭は、不思議だった。
船と同じ速度で飛行するのだから、外気を遮断して身体を守っていることは間違いない。

けれど、こうやって風を通すのだ。
そよ風よりは強い。
マントや髪は揺れる、というよりずっと激しく動いている。
でも、決して強すぎない。

幼い頃の記憶も無い、その上、自然と触れ合う機会を殆ど持たない自分には
想像するしかないのだけれど。
青葉の時期に草原を渡る風というのは、こういうものなのではないのだろうか。

ハーレイもうっとりと目を閉じた。
風を感じるために。

気持ちの、良いものですね……
そう口に出して言えば、ブルーは嬉しそうに笑った。



ちん。
手に提げていたグラスの触れ合う音で我に返る。
踏み締める床が無い上に、身体の何処に力を入れればいいのかも解らないため、
安定しない。

「すみません、ブルー。やはり足元が心許ないのですが」
「仕方ないなぁ」

笑ったブルーは繭を少しだけ、シャングリラに近づけた。
どういう仕組みになっているのかは分からないが、固い床の上に立つ感覚を取り戻し
ハーレイはほっと息をついた。
心なし、吹き抜ける風も弱まったようだ。

頭ひとつ小さいブルーにグラスを渡し、ボトルを注いだ。
淡いピンク色の中に、黄みを帯びた細かい泡が立つ。
シャンパンだ。
己のグラスにも手早く注ぎ、ブルーに差し出した。

ちん。
ブルーがグラスを合わせる。
口に含めば、爽やかな香りが鼻腔に抜けた。

「怖くは無い…?」
「少しは。私は自分では飛べませんから」
「……フィシスは酷く怖がったんだ」
「フィシス様をここに?!」

ハーレイの咎めるような口調に、ブルーは肩を竦めて見せた。

「5日前。すぐに帰してくれと泣かれた」
「………」
「勿論とんぼ返りで戻ったのだけれど。アルフレートが怒ってしまって、
 彼女に謝りたいのだけれど、部屋に入れてくれないんだ」
「……当然、でしょう……」

どうしてそんなことを?
そう訊けば、ブルーは月を見上げた。

「知らないということは、哀しいことじゃないかと思ったんだ」
「………」
「フィシスは、僕たち以上に外に出ることが無い。きっとこんな心地好い風も、
 優しい月も知らないんじゃないかと思ったんだよ」
「………」
「それは、とても哀しいことだろう……?」

こんなに気持ちが良いものなのに。
安らぐものなのに。
僕はずっと…ずっと船の中に居て、息が詰まることがあるよ。
ハーレイはない?

三日月を見つめたまま、言う。
美しい横顔。
儚げで、でも、強い意志を両眼に湛えていて。
惹かれずにはいられなかった。

「……いえ、私は…ありません……」

あなたが居るから。
あなたが居るだけで。
他に何も要らないんです。
あなたが傍にいる、それだけで幸せなのですよ。

その想いは胸に仕舞って。

「私はあなたほど、風と戯れていませんから。それに、少し高所恐怖症の気が
 あるようですし」

怖くて下を覗き込めませんよ。
その言葉にブルーは驚いたようにハーレイを見、笑った。

「……確かに心地好いですね、ここは」
「ああ」
「でも、いきなり、ここでは……フィシス様も驚かれたのでしょう。今度、
 少し高い場所に宿営したら、まずは歩いてお連れになってはいかがですか?」
「…そうだな。そうするよ」

ハーレイはブルーにボトルを差し出す。
二人は、暫く無言でグラスを傾けた。

幅広の三日月が中天に差し掛かる頃、アタラクシアの夜空に二つ目の月が昇る。
消えそうに細い三日月は、青みがかった光を纏う。

二つの月を背景に佇むブルーを、ハーレイは眺めた。
少年の細く、小さい身体。
この細い身体に背負わせてしまっているものの大きさや重さを思うと、胸が痛くなる。
先ほど彼の言った"息が詰まる"という言葉も、その責任の重さの所為もあるのではないか。

ハーレイはグラスを見えない床に置くと、跪き、ブルーのマントの裾を取り―――――

変わりは出来ないけれど、この自分で役に立つことがあるのなら。
あなたに永遠の忠誠を誓います。

彼の瞳と同じ色に、口づけた。

明確な思念で送った訳ではないけれど、その行動の意味を理解したブルーも膝を付いた。
ハーレイが口づけたマントの裾を手に取る。

「ありがとう、ハーレイ………これもお前がくれたものだね」

不燃の素材で、常に戦いの場所に身を置く彼のひとを護れる様に、その身体をすっぽりと覆うものを。
ブルーの為だけに作られたマント。
製作の旗を振ったのは、ハーレイだった。

ちょっと重たいのだけれど。
悪戯っぽく笑う。


思念などで伝えてこなくても、ハーレイの瞳が、行動がすべてを表している。
自分がどれほど大切に思われているか………


すみません、と言いかけて開いた唇を、塞いだ。
太い首の後ろに腕を回す。
ブルーの手から離れたグラスが、見えない床に落ち、硬質の音を立てた。
身体を預けて押し倒した。

圧し掛かりながら、ほら重いだろう?と笑う。
そうして、もう一度口づけた。
深く、深く。



ブルーの柔らかい舌は、自分と同じ香りがした。

くらりと眩暈がする。
酔ったのはシャンパンにではない。

ハーレイはブルーごと身体を起こすと、銀の糸に手をいれ、形のよい後頭部を押さえた。
空いている手で腰の上の愛しいひとの頬から、耳、項を撫でる。

熱い肌。
更に熱い場所を求めて、胸元から一気にジッパーを引き下ろした。
後頭部を捕らえていた手を下ろし、上着を背中から引き剥がす。
露になった白い肌に吸い付いた。

「ああっ…………!」

ブルーが仰け反る。
止まらない。
ハーレイは、下腹部に手を伸ばした。
ブルーが身を固くした途端―――――


続きは、部屋でしとくれ!坊やたち!


"怒鳴った"のは、今日の夜勤のブラウだった。
器用にも盛大なため息まで思念で伝えてくる。

驚いて手が止まったハーレイにブルーは笑いながら口付けると、部屋に飛んだ。
青い繭が消えた後も、シャングリラの白い巨体を、二つの月の光が照らし続けていた。