sweet sweet stories 06
不意に鼻腔内に蘇った香りにクラリと目眩がした。 目を閉じてもう一度、息を吸い込む。 芝と土の混じった匂いは消えない。 ゆっくりと目を開けた。 目の前には目に痛い程青い芝生と、鮮やかな色彩のユニフォーム。 肩が異様に張ったそのユニフォームは、かつて身体に馴染んだもので。 透き通った青の空と途切れ途切れの白い雲を見上げながら、慣れた仕草で フェイスガードとチンストラップを外せば、汗が流れ落ちる頬を冷たい風が 撫でていく。 日差しは暖かいが、もうすぐ霜月の声を聞こうというこの時期の冷たさが 全てを出し尽くして、全力で戦った身体には心地良かった。 あの日の光景だ。 全てが終わった、あの日の―――。 夕飯を終えて、シャワーを浴びて、いつものようにソファーに座った。 テレビを点ければ、マラソン選手の引退会見が放送されている。 そんなハーレイの左隣に、着替えを小脇に抱えたブルーが腰を下ろした。 「面白い…?」 髪を厚手のタオルで拭きながら背もたれに身体を預け、くつろいだ様子だが、 いつになく真剣に画面を見つめるハーレイに問う。 「ああ」と珍しく生返事を返してきた顔をブルーは覗き込んだ。 自分を見下ろして微笑むが、ハーレイはすぐに画面に視線を戻してしまう。 「どうしたの?」 「うん…」 「先生?」 「………」 とうとう生返事すらしなくなった恋人に、ブルーは身体をすり寄せた。 厚い胸に頬を擦り付ける。 だが、反応はない。 ハーレイは真っ直ぐにテレビ画面を見つめているばかりで。 いかつい顎を下から見上げると、ブルーは手を伸ばしながら顔を上げた。 左の手の平でハーレイの右頬を押さえると、伸び上がるようにして唇の左端を啄む。 軽く歯を立てると、ようやく振り向いた想い人は苦笑していた。 「―――ずっと僕だけを見てて…なんて云うつもりはないけれど、こんな時は  ちゃんと見て欲しい…」 「…ごめん」 肩を抱き寄せられたブルーは、逞しいハーレイのそれにこつんと頭を乗せた。 同じようにモニターを見る。 「この人、引退しちゃうんだ」 「ああ」 「……完全燃焼した、悔いは無いって言い切れるところが凄いね」 「そうだな」 「もう少し走れるように思えるけれど…」 「この人の中では、もう無理だということだろう。自分が納得出来ないものを  他人には見せられない」 ハーレイの口調に常とは違うものを感じて、ブルーは頭を上げた。 自分を見つめる眼差しがいつもどおり優しいものであることを確認して、 ほっと息を吐くと、再び肩を借りる。 膝の上で重ねた手をトントンとそっと叩かれて、視線を落とした。 同性なのに自分とは全く違う、筋肉に覆われた腕。 それを見ていて、思い出す事があった。 高校に入学して最初に机を並べたクラスメイト――1年もしないうちに米国本土に 帰ってしまったが――が、ある時悔しそうに云ったのだ。 『何でこの高校にはアメフト部が無いんだよ…!』 『?日本じゃそんなに珍しいことでもないだろ?』 『そりゃそうだけど、ここにはハーレイ先生がいるじゃないか!』 褐色の腕を指でなぞりながら、ブルーはくすりと笑った。 既に意識し始めていたハーレイの名が出て、心臓が跳ねたのを思い出す。 素知らぬ顔で『あの歴史の先生の?』と問えば、クラスメイトは大きく頷いた。 『あの先生、大学リーグじゃかなり有名だったんだぜ』 『へえ…』 『本場のプロからも幾つも誘いがあったんだ…!』 『……そんな人が何でセンセなんてやってるのさ?』 『さあな。大きな怪我したって話もなかったし。でもまあ俺なら例え足が1本無くたって  絶対行くぜ!』 彼は瞳をキラキラさせてそう云ったのだった。 もっとも、帰国後彼がプロの選手になったって話は聞かないけれど。 彼の言葉が頭を巡る。 そして、さっきのハーレイの台詞も…。 ―――プロからも幾つも誘いが…。 ―――自分の納得出来ないものを他人には見せられない。 ―――俺なら…絶対行くぜ! そして―――今だ逞しさを失わない身体。 ブルーは腕を見つめたまま、ハーレイに問うた。 「先生はどうして―――………」 そこで言葉を切って口を噤んでしまったブルーを、今度はハーレイが覗き込む。 「うん…?」と促せば、視線を合わせないまま質問が続いた。 「先生はどうして、アメフトやめたの…」 「ああ……色々あってな」 「…プロからも誘いが来てたって…」 「ははっ!良く知ってるな!」 ブルーは同級生の話を聞かせた。 けれど、やっぱり目を合わせない。 ぽつり、ぽつりと言葉少なに話す姿があまりに"らしく"なくて、ハーレイはブルーを 抱え上げ、膝に乗せた。 「どうしたんだ?」 「…………」 「ブルー?」 横抱きから、足を開かせて向かい合う格好にする。 されるがままのブルーだったが、やはり顔を逸らしてしまう。 すねたように俯く頬をハーレイは両手で挟み、やや強引に上向かせた。 至近距離で覗き込まれて流石に視線を合わせるけれど、ブルーは怒った様な 困ったような色々な表情を混ぜ合わせた顔で、少しだけ唇を噛んでいる。 こんな顔も可愛いな等と不謹慎なことを考えつつ、ハーレイはちゅと小さく口づけた。 頬を解放し極近い場所で微笑めば、躊躇うように一度視線を下げたブルーが くっと顔を上げる。 「―――後悔してない?」 プロからも誘いが来るって事はとても凄いことだよ。 先生がそれだけ優秀な選手だったって事でしょう? スポーツをやる、ううん、そうじゃない得意じゃない普通の人だって、一度は必ず夢見る。 プロスポーツ選手として脚光を浴びてみたいって。 それがすぐ目の前にあって掴める場所に立っていたのに、諦めなきゃならないとしたら…。 どんな理由があったって、後悔するでしょう? 誘いが来る程の結果を上げるまで物凄い努力をしたのだし、何より大好きな事だもの。 それを諦めて別の道を選ばなきゃいけないとしたら……。 絶対後悔するよね…。 後悔しながら選んだ道が教師で、その……その…僕と出会ったのが、その後悔した道の 先だったとしたら………。 そのまままた俯いてしまったブルーの頬が少し赤くなっていた。 しゅんと項垂れる姿があまりに可愛らしく、愛おしくて。 ハーレイは思わず抱き締めてしまう。 「そんなこと考えてたのか…」 「…………うん」 「後悔は―――したよ」 腕の中でブルーが身体を強ばらせる。 更に強く抱き締めて、ハーレイは言葉を続けた。 後悔した、とても。 でもそれはアメフトをやめたから…じゃない。 最後の数ヶ月を無為に過ごしてしまったからだ。 俺は自分の好きなアメフトを忘れてしまっていた。 自分を見失っていたんだ。 プロのオファーが来たのは卒業する3ヶ月ほど前だった。 まだ正式なものじゃなかったけれど、勿論舞い上がったよ。 オファーは一つのチームだけじゃなかったし、アメフトが文字通り3度の 飯より好きだったからな。 全てのオファーで、最終リーグでの優勝が条件に上がっていた。 優勝を狙えるチームだったし、主将でクォーターバックの俺はいけると俺は判断した。 だから、遮二無二やったさ。 それこそ睡眠時間も削った。 順当に勝ち進んで優勝を左右する最終戦は、第3クォーターで同点に追いつかれた。 第4クォーターの頭、先述を指示しようとチームメイトを集めて――― その時初めて気がついたんだ。 みんな酷く疲れていて、ボロボロだった。 この数ヶ月俺の無茶苦茶な"しごき"に耐えてきてくれたみんなは、すっかり 疲れ果てていたんだ。 それでもまだ「頑張ろう」と云ってくれて。 俺はみんなの顔が見えていなかった。 チームの主将なのに。 アメフトは、俺の好きなアメフトは1人の選手の為のものじゃないはずなのに。 みんなでプレイを楽しむものであったはずなのに。 ティルバックのやつ――まだ2年生だったのに、優秀なやつだった――は軸足を 怪我していた。 それを隠してずっとついてきてくれた。 きちんと見ていれば気がつく程の怪我で。 俺は愕然とした。 何やってるんだって、な。 『―――すまなかった…!』 『何で謝るんすか…?!』 みんなは俺のことを誰1人責めなかった。 それどころか、ここまで来たんだから優勝して俺をプロへ送り出そうって…。 恥ずかしい話だが、下を向いて泣いた。 『まだ泣くのは早いよ、ハーレイ!』 『優勝した後お前の泣く顔、全員に見せて貰うからな…!』 「………いい人たちだね…」 「ああ…!最高のチームメイトだよ!」 「だからこそ、俺は―――」 最終クォーター、時間的にもうこれが最後のパスになることは解っていた。 そして、投げるべきラインも見えた。 ゴールライン手前の絶好の位置にティルバック、自分の肩なら技術なら彼に 確実にパスが通る。 タッチダウンも狙えるパスが。 だが、俺は―――。 「―――それで…?」 縋り付くように肩に手を置いて、ブルーが見上げている。 自分に向けられた真剣な眼差しに、またしてもハーレイの口元が弛む。 「負けたよ」 「……!どうして…!?コースが見えたのに、もしかして外したの?!」 「こら。誰に云ってる?」 ブルーの額を指先で小突くと、ハーレイは言葉を続けた。 「俺は彼にボールを投げなかったんだ」 「何で…っ!」 「相手方の強いコンタクトは、ティルバックの彼の足に大きなダメージを  与えるかもしれなかったから」 「そんな…っ!」 「当の本人に泣いて責められた、どうして自分にパスをくれなかったって」 「当たり前だよ!」 「でも、嫌だったんだ、俺は…」 プロなら、こんな選択は絶対にしないだろう。 例え結果足を折ることになっても、パスをし、それを受けただろうと思う。 チームを勝利に導き、客を楽しませる。 それが金を貰っているプロの仕事だから。 でも、俺にはその選択は出来ない。 勝つことよりチームメイトを大事にしたいし、何よりゲーム自体を楽しみたいんだ、 みんなでね。 実際最後の15分はとても楽しかった。 優勝と言う言葉は、正直頭になかった。 ひたすらにゲームを楽しんでいたよ。 そんな俺はプロに向いていない。 優勝を逃したのに、それでも誘ってくれるチームもあった。 嬉しかったけれど、でもそう判断したからオファーは全て断った。 その決断は、決して後悔していないよ。 だから―――。 ハーレイはブルーに口づけた。 優しく、そうっと。 ブルーが気にすることなんか何もない。 こうやって出会えて、腕の中にいてくれて、本当に嬉しい。 愛してるよ。 耳元で囁く。 目の前で見る見る色を変える肌に、堪えきれない愛おしさを感じて―――ハーレイは ソファーにブルーを押し倒した。 「―――っ!僕まだシャワーを…!」 「構わない、そんなの…」 「先生っ、ハーレイ…っ」 胸を押し返す細い腕を絡め取り、ブルーの頭の上に縫いつける。 ハーレイはソファーに広がる銀糸に口づけ、耳を食んだ。 「…んっ…」 「ブルー…」 優しいけれど滾るような目で覗き込まれ、ブルーは身体が溶け出すような感覚を覚える。 溶け合って一つになりたい―――解放された腕を逞しい首に回した。 「後で…お風呂に入れて…」 「…ああ」 唇が重なる。 そんな二人の向こう、モニターで「ありがとうございました」と選手がにっこり笑う。 立ち上がった彼女に記者たちが口々に「お疲れさま」と声をかけた。 驚いたように見開いた彼女の瞳から、ぽろりと涙が落ちる。 再び微笑んだ彼女の顔は、とても美しかった。
-------------- 20081204 後悔しない選択はないけれど 自分を出し切ったと言い切れるから この道を選んで良かったと云える 何故? それは何よりあなたに会えたから