桜夢
かつてここには桜があった。 ミュウの中でも特に大きい自分が両腕を回しても指の先が届かないほど 太くて立派な大木。 それは老木と言っても過言ではない年月を経ていた。 「―――この木をね」 そう言ってブルー自ら土をかけたのが300年前。 このシャングリラがまだ人間の手によって造られたままの姿で、別の名前であった頃。 ハーレイは手を伸ばす。 昔よくそうしたように。 この桜の下を訪れたのは、数え切れない。 爛漫に咲き乱れる春は、もちろん毎年幾度も。 若い緑の葉を愛でに来たことも多い。 全ての葉が落ち、寒々しい姿になる時期でも、頻繁に足を運んだ。 独りもあり、大勢で押し掛けたりもした。 ―――無論、二人の時も。 回数的には一番多かったのではないか。 ブルーと二人で訪れた時が。 節くれ立った幹があった辺りを、褐色の手がさまよう。 外気と同じはずなのに、今はもう無い桜の、その無骨な幹はどこか暖かくて…。 懐かしさに鼻の奥がつんと痛み出す。 収容されていた大量のミュウを一時的にせよ収容せねばならず、 そのスペース確保の為にはどうしても切らなければならなかった。 この場に溢れていた人々も、今はいない。 ハーレイだけだ。 自分、独りだけ。 桜が膨らんだ蕾を綻ばせ、木全体だけでなくその周辺に空気まで薄紅色に 染め上げたのち、更に楽しませた人々の上にその花弁をあらかた降らせてしまうと、 その夜がやってくる。 ブルーとハーレイの二人だけの夜が。 「今夜だ」 「そうですね、頃合いだ」 その日、ハーレイは勤務が終わると、真っ直ぐに桜に向かう。 そこには既に銀と紫を纏った人が待っている。 美しい彼の人が盛りを過ぎた桜の木の下に佇む姿に、毎年の事ながらハーレイは 息を呑む。 そんな船長を認めて、ミュウの長は微笑んだ。 「ハーレイ、早く来るといい」 「お待たせしてしまいましたか…!」 「もう、始めるぞ」 ブルーの細い腕がすっと上がる。 慌てて駆け寄ったハーレイが傍らに立つと、一気に空気が渦巻き、桜の枝を嬲った。 数千の花弁を巻き込んだ桜色の風が、二人を包む。 幾重にも。 そうしてそれは高く舞い上がり、桜の木の上で数度旋回すると消え去るのだ。 これが、毎年桜花の最後の姿になる。 宇宙船という限られた空間では、花びら1枚といえども、どんな誤謬を引き起こすか 分からない。 完全に管理しなければならないのだ。 大量の花弁を降らせる姿はとても美しいのだが、自然界と同じように散るに 任せるわけにはいかない。 だからと言って切ってしまうのも、花が咲かないようにするのも忍びない。 ならばいっそと、こうしてブルーが"処分"することになったのだ。 昨年もこうして二人だけで桜の花を見送ったのだった。 今年は―――ハーレイは目を開いた。 暗褐色の瞳に映るのは、何もない空間。 かつてここに桜があったと想像も出来ないほどの無機質なグレーの床があるのみ。 ちり…。 心が痛む。 しかし、それを指示したのは自分だ。 桜を切り、根を抜き、土を引き剥がし、素っ気ない空間を作るように、と。 無くなったのは桜だけではない。 ハーレイは己の右側に目を向ける。 「―――こんな場所を見たら、あなたは悲しまれるでしょうね」 それとも怒りますか…? あなたが愛情を注いで育て、サイオンを使ってまで命を延ばしてきたこの桜を 処分したことに…。 「でも、仕方がなかったんです。あれだけのミュウを一時的にせよ収容するには  この部分を明け渡すしかなかったので…」 まるでそこにブルーが居るかのように、ハーレイは話し続けた。 しかしその内容は、本当にブルーが在ったならば今更説明しなければならないような ものでも、また、ハーレイの釈明を必要とするようなものでもない。 ―――ブルーならば真っ先にそうせよと言った筈だろうだから。 話せば話すはなすほどにブルーの不在を示すようなものなのに、だがハーレイは 言葉を続けた。 安心してください。 あなたが手ずから植え、水をやり大切に育てた、木の芽を持った枝はきちんと 保管してあります。 あの時あなたが仰ったように、地球の桜に接木出来るように。 ―――夢は、人に笑われるほど大きく抱いて良いものだ、そう僕は思うんだよ。 あなたのその言葉がなければ、私たちはあそこで潰えていたでしょう。 アルタミラの地獄を辛うじて脱出したものの、燃料も食料も酸素も尽きかけて 向かうべき場所も未来も希望も失っていた私たちに、あなたの言葉は私たちの 心の中に光を灯してくれたのです。 「もう、どうしようもない…!」 「そんなことはない!簡単にそんなことを言うもんじゃない」 「じゃあ具体策を示してくれよ、ハーレイ!」 「そうよ!水も空気もなくて、どうやっていけるの?!」 「サイオンなんて何の役にも立たないぞ!」 半狂乱で脱出を指示した我々に詰め寄るミュウたちにそう問われて、 実際答えうる言葉はなかった。 叫ぶ彼らとて、答えなど無いことを承知している。 我々に責任が無いことなど重々分かっていて、それでも声を上げずには いられないのだ。 問うも地獄、問われるも地獄―――私たちは追い詰められ、酷い精神状態にあった。 そんな中に、まるで歌うかのようなあなたの声が響いてきた。 「これは桜の枝なんだって」 何事かと振り返った我々の目に、小さなガラスケースを抱えたあなたが佇んでいた。 仲間の中でも特に身体の細く小さいあなたが、僅かに照明を反射する脆いケースを 手にしている姿はとても儚げで。 でも、その美しさに私たちは言葉を無くしていた。 「ヒルマンが調べてくれた。ソメイヨシノという種類だそうだ」 「………そ、それが―――」 「この桜は種からは育たなくて、接木という方法でしか育てられないのだって」 「だから、それが―――」 「この木をこの場所で育てたいと思うんだ」 「冗談じゃない!オレたちが飲む水もないのに、そんなものに―――」 「水は僕が調達する」 「なっ!」 「人間から奪うんだ」 「―――!!」 私はブルーに問うた。 「―――奪う…?どういうことだ、ブルー?」 「言葉通りだよ。力づくで奪い取ってくる」 「ブルー…」 確かに彼なら可能だろう。 彼の並外れたサイオンならば。 返す言葉のない私に、ブルーは言った。 私を見ずに、その桜のケースを見つめて。 「食べ物も、エネルギーも、全部」 「………それは危険だ…」 「大丈夫。僕一人で行くし、この船から遠い場所から獲ってくるから」 「そんなことを言ってるんじゃ―――」 私の言葉を、周囲にいたミュウたちが遮っていく。 明らかな安堵を含んだ声で。 「そうだな…。ブルーなら簡単だよな!」 「あんなに強いんだし」 「遠い所からなら、私たちも見つからないわよね!」 「ちょっと待って―――!」 完全に発言のタイミングを失った私が、それでも黙っていることが出来ず 声を荒げると、ゼルに肩を掴まれた。 「…ブルー、当座はそれでいいだろうが、この先はどうするんだ…?」 どこに向かうと言うんだ、この船は。 ゼルの声は大きいものではなかったが、周囲を黙らせるには十分な内容であった。 ブルーも顔を上げる。 その暗く強い視線をまっすぐに受けて、あなたはにっこり笑った。 「育てたこの木の枝を、地球の木に接ぎたい」 しばしの静寂の後、私の周囲で苦笑が起こった。 首を振り、馬鹿にしたように笑う者もいる。 「何を言ってるんだか!」 「地球がどこにあるのかも分からないのに?!」 「どれだけ遠いか!」 「地球には物凄い数の軍がいるに違いない!」 「大体そこまで辿り着くものか!!」 「どこか人類に見つからない場所で、暮らすのじゃないの?!」 私も驚いた。 同時に思った、とても無理だと。 危険だ、無理だと騒ぐ者たちに、ブルーは静かに答えた。 「うん。難しいのも危険なのも分かってる。むやみにみんなをそんな危険に  晒すつもりもないよ…」 私は静かにあなたの言葉を待った。 私だけじゃない、ゼルも、声を荒げていた他の者たちもじっと待つ。 そんな私たちに正対して、あなたは言った。 でも、怯えて逃げて、ただ生きていく―――そんな生活も辛いと僕は思う。 良い隠れ家を探し出しても、常に見つかるんじゃないかと考えながら生きていくのも。 僕は夢を持って、胸を張って生きていきたい。 そんなとき抱く夢は―――夢は、人に笑われるほど大きく抱いて良いものだ、 そう僕は思うんだよ。 僕の言った夢は奇跡に近いものなのかもしれない。 人類がそんなことをあっさり許すはずがないものね。 でもね、奇跡は起きるものだ。 僕らはそれを知っている。 そうだろう…? 僕らは、あの地獄、アルタミラから逃げ出すことが出来たのだから。 「明日、地球に降ります」 ハーレイは誰もいない隣に話しかける。 その瞳には何が映っているのか、微笑みさえ浮かべて。 「あなたの桜と共に…」 ―――もうシャングリラには戻ってこないかもしれません。 大丈夫です、あなたの意志を継ぐ者はジョミーだけではなくなった。 私の後継者も、きちんと育っています。 ミュウはきちんと導かれる、この先もずっと。 最もあの地球の惨状ですから、あなたの桜を接げるような木は無いかもしれない。 そうしたら、戻ってきますよ。 あなたの創り上げたこのシャングリラが、私の家ですから。 ここしか居場所はありません。 その時は嫌がらず、またよろしくお願いします―――。 「でも、いつか必ず地球の桜にこの木を接ぎますよ。あなたの夢ですからね」 ハーレイは懐から取り出した細いガラスケースを、きゅっと握り締める。 想いをこめて。 壊れないようにそっと。 ―――ミュウの育てた桜が、人類の地で人類の木に、咲く。 ―――それはとても美しい桜になると思うんだ。 ブルーの声が頭に響く。 それはかつて聞いた言葉なのか、それとも…。 傍らを見、もう一度ガラスケースに収まっている桜に視線を落とすと、ハーレイは それを大切に制服の胸元に仕舞った。 そうしてそっと手の平を胸にあて軽く一礼すると、踵を返した。 人類との対話を控えた前夜の、シャングリラのお話―――。
--------------------- 20090510 どんなに辛くても 夢を抱いて 沢山 大きく 全部ではないけれど それはきっと叶うから