夢をみた。





愛しいあの人が、暗闇で蹲まる。
そこだけスポットライトを浴びているようにぼんやりと光る輪の中で、
膝を抱えて蹲っていた。
顔は見えないけれど、見間違うはずも無い。
彼だ。

何故だろう。
彼は実験動物として扱われた収容所時代の粗末な服を着ていた。
その華奢な肩が震えている。



どうされたのですか?
死という悲しい結果ではありましたが、この苦しみの多い現実世界から
解放された筈のあなたが、何故悲しむのです?
神の御許に、いえ、先に逝った仲間の許で、見ているだけのあなたには
歯痒いでしょうけれど、それでも何とか前に進んでいる我らの行く末を
心配なさって下さっているのですか?
私たちはあなたの意思を継ぎ、あの星を目指しています。
もう少しです。
あなたの―――――身を賭した行動のお陰で辿り着けそうですよ。



心の声が届いていないのか、彼は蹲ったまま、動かない。
痛々しげな姿に、ハーレイは駆け寄る。
でも、もうあと2メートル程の場所で何かに進行を妨げられた。
目には何も見えないけれど、硬質の壁のようなものがハーレイの行く手を
遮っている。
回り込もうとしても蹲る彼の周りを歩くだけで、近づく事が出来ない。
ハーレイは見えないガラスを力いっぱい叩き、大声で叫んだ。

「ブルーっ!」















―― voice to call ――















何度呼んでも、ブルーは顔を上げない。
ハーレイは耳を澄ました。
自分の呼吸音以外に物音は無い。
肩を震わせているブルーの零す声や吐息も聞こえない。
こちらの声も、ブルーには全く届いていないのだ。

けれど、蹲る彼の人のあまりの寂しげな様子にハーレイは無駄だと
解っている行為を止める事が出来ない。
何度も何度も、愛しい人の名を叫んだ。

ふと、ブルーが顔を上げた。
潤んだ瞳をしているが、涙は見えない。けれど、唇には地が滲んでいる。
ああ、また―――――悲しみを堪える時の癖だ。
涙が頬を伝うだけで、かなりの感情が洗い流されるのだから、そういう時は
泣いてしまってくれと、幾度と無く言ってきたのに。

ハーレイは己の拳が痛むのも構わず、行く手を阻む何かを叩き、
ブルーの名を呼ぶ。
こちらを向いてください!
私を、見てください!
私はここに居ます……!
お傍に、おります……っ!

けれど、紫の瞳に捕らえられることは無かった。
ブルーは宙を見つめたままだ。

その唇が開いた。
何かを呟いている。
ハーレイは必死で唇の動きを追った。

すぐに、解った。
ブルーの唇から零れているのは、とても良く耳にしたものだったから。
ハーレイは顔を歪ませ、己の唇を噛んだ。





ジョミー…ゼル……エラ…ヒルマン………ブラウ………





仲間たちの名前だった。
フィシス、リオ…と途切れる事がない。
ブリッジから機関部、医療セクションと続く。
ブルーはゆっくりと、シャングリラの仲間たちの名を呟いた。
続いて、もう既に河岸に渡ってしまった者たち。

開く唇から、彼の声は決して大きくない事が解った。
囁くように名を呼び続ける。
その様子を、ハーレイは見ている事しか出来ない。
胸が潰れる思いだった。

全ての者の名を読み上げた最後に。
ブルーの唇が、そう動いた。
見間違えるはずも無い。



―――ハーレイ………



ブリッジで、食堂で、ハッチで。
展望室で、廊下で、会議室で。
シャングリラの中で、名を呼ばれていない場所は無いだろう。

自分の個室でも。
青の間でも。
ベッドの中でも―――――腕の中でも。



…ハーレイ………ハーレイ……ハーレイ…



ブルーの腕が、身体に巻きつく。
己の事を抱き締めるように。



ハーレイ、ハーレイ……ハーレイ…ハーレイ……っ



紫の瞳から、涙が―――ポロリと零れた。
ハーレイの名を呼ぶ毎に、次々と頬を伝う。



ハーレイっ、ハーレイ…っ!



叫んでいるのだろう。
天を仰いで、開く口の大きさは先程とは比べ物にならない。



ハーレイ…っ!!



ふいに。
涙に塗れ歪んだ顔が、横を向いた。
見えないガラスに身体を押し付けるハーレイの方を。

「ブルーっ!!」
ハーレイは力任せに拳を叩き付け、怒鳴った。
打ち付けられる手からは赤い雫が舞い、声も枯れる。
だが、ハーレイは気にすることなく続けた。
その思いが届いたのだろうか、驚いたように眼を見開いたブルーが手を伸ばす。

「ハーレイ…?」
微かに。
呟く声が聞こえた気がした。











そこで、目が覚めた。
跳ね起きてみれば夜具や服は汗びっしょりであったので、まだ室内は暗かったが
ハーレイはベッドを後にする。
シャワーを浴び、ざっと身体を拭いただけで洗面の台に両手を付いた。
酷く疲れていた。
あの夢の所為……?

メギドから戻ってこなかった彼。
それ以後、初めて見た彼の姿だった。

ほんの一瞬でいい。
夢でもいいから、と。
姿を見たい、声を聞きたいと、どれほど願ったか。
それが、こんなに辛いものだったなんて。

ハーレイは顔を上げた。
鏡に映る自分の顔には、はっきりと隈が映っている。
あの日以来ゆっくり眠った事などなかった為だろう。
そうに違いない。
愛しい彼の姿を見て、疲れを感じるなんて―――。
あるはずも無い。
ハーレイは顔を横に振る。

けれど……。
鏡の中に、夢の中のブルーが浮かんだ。
痛々しくて、哀しくて。
見ていられなかった。



あれが本当の姿だったら…?
あちらの世界で、寂しくて泣いているのだとしたら。
たった一人で蹲り、昔の記憶に縛られているのだとしたら。
仲間を、自分を呼んでいるのだとしたら―――――



鏡の中の無表情な自分。
その首筋に右手がせり上がってきた。
光るものを持っている。
それが自分の首筋にあてられるのを見ているのに、ハーレイには己の事とは
思えない。

これで、あの方の元に行ける………。
あの方を慰め、抱き締める事が出来るのだ………。

頭の中を巡るのはその言葉だけで―――――。
剃刀を持っているのは間違いなく自分の手なのに、首筋を掻き切ろうとしているのに
実感が無い。
鏡の中の光る刃は、ゆっくりと確実に血管を狙う。

金属が触れる、冷たい感覚。
皮膚の上をすっと動いた。
赤い線が生まれ、真っ赤な雫が零れる。



痛みが走った。



「―――つっ…!」
カランと、音が響く。
剃刀を投げ捨てた手は、傷口を押さえていた。
指の間から溢れてくるものは、無い。
表層が少し切れただけのようだ。

ハーレイの肩が震えている。
はたり、はたりと涙が落ちた。



まだ、行けません。
あなたのお傍に行くことは、今は出来ない―――。

『頼んだよ、ハーレイ』

腕を掴まれた感触と、流れ込んできた暖かい思念が蘇る。
ブリッジで交わされた言葉。
あなたとの最後の会話。
その約束を、自分はまだ果たしていないから―――。



ハーレイは洗面台の下に崩れ落ちた。
血がついた手で両目を覆う。
赤く色付いた雫が、幾筋も頬を伝っている。

「申し訳…ありません…っ…!」



あんなにも寂しげなあなたを放っておくことしか出来ない私を、
こんな情けない自分を、それでも呼んで下さっているというのに…!
あなたを独りで逝かせてしまった、こんなにも力の無い、何も出来ない
自分なのに、あんなに求めて下さっているというのに…。
長い間ずっと、傍にいることしか出来なかったのに、今はそれすらも出来ない
こんな、こんな自分の名を……泣きながら………!!



「申し訳ありません……っ」
ブルーっ。
嗚咽が響く。
ブルーが戻らないと解ってから、初めての涙だった。
止める事が出来ない。
ブルー…すみません……ブルー……。
うわ言の様に呟きながら、ハーレイは声を上げて泣いた。

その頬に、ふわっと触れる暖かい空気。
泣かないで、泣かないで。
そう言っている様に感じられて―――――
暖かな空気は柔らかい風となり、ハーレイの身体を包んで消えた。



すぐには立ち上がれなかった。
床に座ったまま、深呼吸をする。
ハーレイはまだ身体に纏わりつく暖かな空気に、微かに花の香りが
混じることに気付く。
これは、ブリッジの下の緑地で毎年咲く花のものだ。
ブルーが、よく愛でていた。
控えめだけれど、皆を穏やかな気分にさせる良い香りだと。

もう花の咲く時期になったのか。
季節は移ろい、時間は過ぎていく。
あなたが、居ないのに……。
私はあなたの傍らに居れないのに……。

再び頬を涙が伝う。
けれどそれは暖かく穏やかなものに変わっていた。

そう、あなたが居なくても、時は過ぎる。
確実に。

私に立ち止まっている時間は無い。
悲しみに暮れる暇もない。

あなたがくれた生きる目的を達成するために、その為に前に進まなければ。
あなたが示してくれた、あの青い星に辿りつく為に足を進めなければ。

だから、今はあなたに会うことは出来ません。
生きて生きて、生き抜いて。
皆の未来を勝ち取れた暁には、胸を張ってあなたのお傍に参ります。
もう少しです。
長くはお待たせしない。

それで、良いのですよね?

「…ブルー…」
声に出して、呟いた。
それだけで、身体が温かくなる。
微笑んだハーレイはもう一度、花の香りを吸い込むと、すっくと立ち上がり
身支度を始めた。
また、忙しい一日が始まる。


















夢をみた。

内容は覚えていない。
でも、自分を呼ぶ穏やかで懐かしい声は、耳に残っている。
………ハーレイの夢だったんだ。
憶えていない事は少し残念だったけれど―――――。
昨夜、寂しくて凍えそうだった身体の中は、今は暖かくなっている。

大丈夫、僕は負けない。
シャングリラに、ハーレイの許に帰るのだ。
必ず。



扉が開く。
ブルーはその先を、睨みつけた。
また、一日が始まる。











----------------------------------- 20071012 二人は必ず繋がっていた。 どんな時も。 絶対。