「何故止めなかったんじゃ…!」

ゼルの罵声が、ブリッジに響き渡った。

床に座り込むハーレイの頬は、青黒く色を変えている。
更に殴りかかろうとするゼルを、ヒルマンがブラウが後ろから
羽交い絞めにして押し止めた。

「放さんかっ」
「もう止しなよ!」
「やめんか、ゼル!」

「……いや、いいんだ……」

ハーレイが口の端から零れた血を親指で拭い、立ち上がる。
うっすらと埃や灰が付着した服のままゼルの前に立ち、頭を下げた。

「すまなかった、ゼル」
「許せると思うかっ…こんな…こんなことを……!」
「―――――いや…」

かっとゼルの目が見開かれた。
再び、ブリッジに鈍い音が響いたのだった。











― 約束 ―











"すべてが終わった"後、シャングリラを覆ったのは深い哀しみ。
多くの仲間を失い―――――ブルーを失った。

前ソルジャーにして、偉大な指導者であった彼。
アルタミラを脱出した後、一筋の光明さえ見出せず生きる希望すら失いかけた
ミュウたちに、力強く未来を指し示した―――――細い細い腕で。

あの小さい身体を投げ打って、助けてけてくれた。
今、白い鯨が無事に在るのは彼のお陰で。
その事実は、1人1人の心のうちに在る親しい者たちを失った事に因る悲しみを、
増幅させている。
ミュウたちは、ただただ深く頭を垂れる事しか出来ないでいた。

そんな中艦に響いた怒号。
破られた静寂は元に戻らず、シャングリラを包む空気が険しいものになる。
ハーレイは中継をエラに頼み、艦内全てに響くテレパシーを送った。

『騒がせてすまない。ソルジャーシンとトォニィたち、そして…
 ソルジャーブルーのお陰で当面の危機は去った。現在観測できる範囲に
 国家騎士団の艦影は無い。皆、落ち着いて欲しい』

『今後の進路についても、後ほどソルジャーから説明がある。
 皆、辛いだろうが……ここは堪えるしかないのだ』

さざ波のように"声"が押し寄せる。

『解りました』
『はい、キャプテン』
『難しいですが…努力します』
『はい』
『…はい』
『……わかりました』

エラの助けが無くても受け取ることが出来た。
優しい思念波が寄せられる。
ハーレイの口角が僅かに上がった。

素直で心の良いものばかりです、あなたの愛し子は
…ブルー……

『間もなく我らのソルジャーと頼もしい子供たちが戻る。
 出迎えられる者はハッチまで集まって欲しい』

以上だ。
終了すると、手伝ってくれたエラが心配そうに見ていた。
手を伸ばして、切れた唇に触れる。
指先を通して、テレパシーで伝えて来た。

『あなたも辛いのに………哀しみは同じなのに…こんな酷いことを』
『………これは、ゼルの優しさなのです』
『暴力を振るうことがですか?』

ハーレイはエラの手を取ると、指先にそっと口づけた。
心配してくれてありがとう、と声に出し、小ぶりな手を引く。
「出迎えに行ってくる」との台詞を残して、ブリッジを後にした。

手を引きながら、言葉を続ける。
『彼は誰より死というものを嫌う。弟御を目の前で失われた事が原因なのだろうが』
『………』
『私は…そんな彼が尊敬し、唯一頭を垂れる相手を、亡くされた弟のように
 感じていたブルーをむざむざ死に追いやったようなものなのだから』
『ハーレイ、それは違います…!』
『彼の立場であったら、私だってそう思うでしょう。どうして自分に
 言ってくれなかったのだと。そこまでの覚悟をせねばならない事態に陥っていることを、
 何故教えてくれなかったのだと』
『それは…今だから言える事でしょう』
『…………そう…ですね』

そこで思念は途切れた。
二人は手を放し、ハッチに着くまで無言だった。

強い光を放つ、6つの軌跡。
それはもう間近に見えていた。
それぞれ異なる色味を帯びる、その中に、見慣れた"ブルー"は無い。

エラは隣に立つハーレイを見上げた。
静かな横顔に滲む、哀しみの色。

ああ―――――
だから、ゼルは拳を上げたのだ。
得心したエラは、ハーレイの同じ顔をもう一度見たら叩いてやろうと、心に決めた。
















ブリッジから逃げるように走り出たゼル。
プラットフォームに向かう後姿に、ブラウが追い縋った。

「ちょっと、お待ちよ…!ゼルっ!」
「わしには用はない」

あの外見からは想像もつかない速度で進み続け、丁度のタイミングで
滑り込んできた車両に飛び乗った。
締まる扉の間を巧く擦り抜け、ブラウも飛び込む。
動き出した列車には、二人だけ。
不貞腐れたように椅子に座るゼルの前に仁王立ちになった。

「あたしの声が聞こえなかったとでも…?」
「ふん。何の用じゃ」
「言わなくても解るだろう?―――――何故あんな真似を…」

ゼルは組んでいた腕を解き、上目遣いにブラウを見た。

「まさか、ハーレイがブルーの言葉……遺言を黙っていた事に、
 本当に腹を立てているんじゃないんだろう?」
「…そうじゃ、と言ったら?」
「ぶん殴るよ」
「じゃあ、殴れ」

ほれ、と頬を向ける。

「ふざけるてるんじゃ無いんだよ!」
「……わしは至って真面目じゃ。さあ、殴るがいい」

頬を差し出すゼルの目尻に光るものを認めて、息を止める。
ブラウはゼルの横に座った。

「話してくれなくては分からないよ」

私たちがミュウでもね。
俯くゼルの頬を両手で挟み、自分に向かせる。
潤む瞳は、けれど、しっかりとブラウのオッドアイを見つめた。

「あやつの、ハーレイの席を見たか?」
「……?いや?」
「肘掛の前部にくっきりと跡が残っておった」

ゼルのらしくない物言いに、ブラウは急かさず「何がだい?」と訊ねた。

「指の……爪の跡じゃ……」

そうかい。
ゼルの言わんとしている事が理解出来たブラウは頬から手を放すと、
今度は自分が目を逸らした。

「ソルジャーが飛び立ってから、あの……あの瞬間までどれくらい時間があった?」
「さあ………憶えてないよ」
「その時間ずっとじゃぞ、ずっと見ておったんだ、あいつは」


ソルジャーが死に行く様を。


ブラウも、言葉を発したゼルも動かない。
滑るように進む車両の機械音だけが、響く。

「わしは……弟がこの手を放れ、落下し、炎に飲み込まれる様子を見た。
 僅か2分、いや1分にも満たない時間だったろう。じゃが―――――」

地獄じゃった
あんな苦しみは味わったことが無い
未だに、無い

最愛の者が消え行く様なぞ――――
ゼルの身体を、ブラウは抱き締めた。
涙で震えるその身体は記憶にあるものより細くて、過ぎ去った年月の長さを
実感させられる。

「もういいよ……!あんたの言いたいことは分かったよ」

背中を摩る。
身体はブラウに預けてされるがままになっているが、口は噤まなかった。

「誰よりもあいつの辛さは分かるつもりじゃ。なのにあいつは、ハーレイは……
 謝罪なぞ、誰が望むものかっ……!」

ゼルの言葉と身体から発せられる波動は、怒りと哀しみに満ちていて、ブラウを貫く。
ありえない痛みを感じて―――――涙が零れた。

うん。
うん。
分かったよ。

静かに進む車両に、ブラウの声だけが響いていた。













珍しく自分から暇乞いをしたものの、ハーレイの足は自室には向かなかった。
疲れは感じていたが、眠れそうも無い。
あんなことがあったのだから、それは皆そうなのだろうが。

……いや、そうでもない。
ツェーレンの欠伸を噛み殺した姿が浮かぶ。

今ブリッジには、ソルジャーシンを中心にトォニィ以下高い能力を持った
子供たちが並んでいる。

いきなり来た世代交代。
自ら退出を願い出たのは情勢が安定したこともあるが、彼らに対する戸惑いもあった。
自分がもう必要ない、とは思わない。
身体こそ大きくなり、強大な――ブルーを凌ぐほどの――能力を有してはいるが、
彼らはまだ子供だ。
ソルジャーとて、そうなのだから。
まだまだ船を預かるキャプテンとして務めなければならない。


ハーレイは暗い通路を歩く。


やはり、というべきか。
着いたのは、展望室だった。

いつか、ブルーと共に降る星を眺めた。
そこで約束し、誓ったのだ。

一日でも長く生きると。
彼よりも、一秒でも長く。
自分の死で、彼を哀しませないように、と。

けれど。
それは彼の死を看取るということで、想像以上に辛いことで。
ハーレイの心はあの戦闘中、幾度と無く張り裂けた―――そう思う。

でも、涙は無い。
どうして自分が泣かないのか、不思議だった。
立場上ブリッジでは無理でも、こうして1人になったのに涙は溢れてこない。

実感が伴っていないのだろうか?
いや、彼が消滅する様をこの目で見たのだ。
これで実感が無いなどといったら、正気ではない。

では、自分はそんなに冷たい人間だったのだろうか。
彼の死をすんなり受け入れられるような。

胸元で、じっと手を見る。
傷ついた指先。
半分ほど剥がれてしまった爪もあった。

さっきはこんなに苦しかったのに。
痛んでいることにすら気が付かないほど、辛かったのに。

今はどうだ。
あの時千千に乱れた心は、今、とても穏やかだった。
こうやって彼との思い出の場に来ることが出来るほどに、落ち着いている。

やはり、自分は冷たい人間なのだろう。
ハーレイは、笑った。

あの時と同じように、見上げる。
その先には瞬くことがない星々の光。

隣に視線を移しても、銀の髪も床まであるマントもない。
誰もいない、左隣。

「……ブルー……?」

声に出してみた。
脳裏に蘇る、声。

(…ハーレイ…)

(ハーレイ…どうしたんだい?)

身体が、心が温かくなる。
じわっと熱いものが込み上げてくるが、溢れることはない。

悲しくないのか、私は……

泣きたいと思っているわけではないけれど……

いや、泣きたいのだ。
ぼろぼろと涙を零して、その温かさに癒されたいのだろう。

癒されたい?
この落ち着いた心の内の、何を癒したいと望むのか。

その"何"かを思い出すことも出来ないほど深い場所に覆い隠してしまっている、
弱い心。
ゼルに拳を振るわせるほど、情けない心。

ふっと、ハーレイは笑った。



そんな簡単に癒されるはずも無いのに。



死ぬまで癒されることなど無いのだ。
多分。

間違いなく。



「ブルー……」
ハーレイは、小さい声でもう一度、名を呼んだ。

その背後で、シュンと扉の開く音。
驚いて振り返ったハーレイの目に、翻るマントが映った。

一瞬息を呑むが。
それは鮮やかな赤を纏っていて。

「ハーレイ!」
「ソルジャー、どうされました?」
「部屋にいなかったから……少し心配した」

考えていることを素直に口にされて、ハーレイは微笑んだ。

こういうところはあの人と全く違う。
真っ直ぐで、素直で。
どうして彼を後継者にしようと思ったのか。
自分と正反対ではないか。

ご心配をお掛けして申し訳ありません、と頭を下げれば、僕が勝手にしてるんだから、
と慌てて言う。
その様子に、もう一度ハーレイは笑う。

「……大丈夫かい?」
「はい。案外図太かったようです、私は」
「悲しいときは、泣いていいんだから。分かってるよね、ハーレイ?」

まるで小さな子供にでも言うような台詞だが、ジョミーの眼差しにからかいは無い。
真剣な瞳からそっと逃れると、目に入ったのは、見慣れた補聴器。

誰よりもブルーを慕った彼のこと。
悲しくないはずは無い。
ハーレイは、台詞を返した。

「あなたも」
「…うん」

綺麗な緑の瞳に、涙の膜が張る。
見ない振りをするために、ハーレイは天を仰いだ。

二人は無言でガラスの向こうを見つめる。
暫くして、いきなりジョミーが言った

「地球へ、行こう」

目を見開いて振り向いたハーレイに微笑みかける。

「地球へ行こう、ハーレイ」
「それは―――トォニイたちも同じ意見なのですか?」
「彼らにはまだ言っていない」
「では―――――」
「誰かに伝えたのは、君が初めてだよ」

そう言ったジョミーの顔に、既視感を憶えた。
補聴器の所為だけではない。
その大人びた表情、迷いを消した声―――――もう随分昔になってしまった記憶に
重なる。


彼はソルジャーになったのだ、そう思った。


「これは、ブルーとの約束だから。でもそれだけじゃない。僕が、心の底から
 それを望むんだ。だから―――」

地球を目指そう。
皆で。
共に。

輝くような笑顔。
それも記憶にあるブルーと同じで。
ハーレイは心の中で呟いた。

あなたの選択は正しかった。
ジョミーを見て下さい。
あなたの意思を立派に継いでいる。

「それには君の力が必要なんだ」
「……ありがとうございます」
「だから、明日は元気にブリッジに来て欲しい、キャプテンとして。
 辛いだろうけれど、お願いだ」

分かりましたと頷けば、ひらりとマントを翻し、一言「頼んだよ」と声を残して
ジョミーは展望室を後にした。
再び訪れた静寂の中、ハーレイはため息をつく。

もう少し落ち着いて頂かなければ。
いくら年若いといっても、彼はもう長なのだから。

でも、落ち着いたジョミーを想像出来ず、一人笑う。
笑いが収まると、彼の言っていた"約束"という言葉が浮かび上がってきた。

あれも、そうなのだろうか。
彼の残した言葉。

『君たちが支え、助けてやってくれ。
 頼んだよ、ハーレイ』

遺される者の事など、全く考えていない、酷い言葉だと思うけれど。
実にブルーらしいとも思えて。
遺言というよりも、約束という方がしっくり来る気がして。
ハーレイは、そう思うことに決めた。

少し大きな声で言う。


「全力で支えますよ、ソルジャーシンを」


愛しているなら、約束は守らなければなりませんから。
ブルー、あなたを愛しています。


ハーレイの声が、展望室に静かに響いた。


















----------------------------------- きっと、ハレさんは泣けない。 すぐには、泣けない。 これは、自分自身で何とかするほかないのだけれど。 それを分かっていても尚、助けてくれようとする仲間なのではないかと。 長老たちは。 だから、300年もの間を共に過ごしていられたのじゃないのか。 そう思いました。 20070727