cloudy sky

びん。

鋭い痛みと共に、弓を持った手の甲に赤い筋が走る。
切れたチェロの弦に叩かれたのだろう。

菊地は楽器を立てかけ弓を置くと、窓辺に据えられた机に腰掛けた。
窓の外には鈍い色をした分厚い雲と、中層のビル、その合間に木々の緑が覗く。
ボストンのいつもの表情。

春を間近に控えた、冬の終わりは特にこうだ。
青い空が姿を見せることは滅多に無く、ビルと同じ色合いの雲が街を覆う。
雨を降らせはしないのだが、気鬱にさせる天気だ。
それがボストンだと、人は云うのだけれど。

菊地は小さめの丸い眼鏡を外し、両目の間を揉む。
疲労を感じるほど長時間弾いていない筈だが。
時計を見れば、やはり、1時間も経っていない。

―――くさくさするから、遊びに行こうかな
チェロをしまうことも無く、携帯に手を伸ばす。

ぴ、ぴ・・・
電子音が響く。

―――キャシー・・・最近旦那とよりを戻したっけ・・・
エルザは、NYだ・・・リズ、サリー、ミン・・・
菊地は、携帯の操作を続けながら、キッチンでお湯を沸かし珈琲を淹れ、
TVのスイッチを入れる。

白い湯気を立てる褐色の液体を一口啜り、頷いた。

―――ジーナにしよう
暗褐色で肌理の細かい、美しい肌を持つ女性だ。
彼女の首筋を唇でなぞる、その感触といったら―――言葉にするのはむつかしい。

うっとりするその感触を蘇らせていると、TVから覚えのある名前が聞こえてきた。
チアキ、チアキ、チアキ。

菊地は固まったまま、画面を凝視する。

―――・・・そうか、千秋くん、優勝したんだ



「おめでとう」
画面に向かってそう呟くと、菊地は携帯をベッドに投げた。
机から眼鏡を取り、チェロを抱え椅子に座る。

分厚い雲に切れ間が出来たのか。
ボストンの街に、空から光の柱が幾状も降りてきた。
それは菊地の部屋にも降り立ち、チェロと奏者を包む。

―――こういうのを好敵手っていうのかな・・・・・負けたくない

弓を構える。

―――近い将来、ソリストとして彼の隣に立っていたい

すうっと、弾き始める。
人の声に一番近いといわれる楽器が、再び歌いだしたのだった。