はらり。

ひとひらの花片が、琥珀色を湛えたグラスに落ちた。
手で覆うように持つグラスをくるりと巡らせれば、
ゆらゆらと揺れる薄桃色の花弁と立ち上る香り。

目で鼻で楽しんだソロモンは、花弁を飲み込まぬよう気をつけながら、
ブランデーを一口含んだ。
嚥下すると、芳しい香りが鼻腔を通り、喉を焼く感覚が体内を降下した。

隣で、アンシェルも同じようにブランデーを味わっている。
細く淡く光る月と満開の桜の下で。









狂い咲き  −side S−










己の酒量はわきまえている――――そのつもり、だった。

酒量を過ごした覚えはないが。
僅かではあるがふらつく足下に全身を包む倦怠感と浮遊感。
これは"酔っている"というべき状態だ。

ソロモンはグラスを携帯用酒器が入った篭に戻した。
アンシェルを見れば、いつもの感情の読めない表情でグラスを傾けている。
それでも顔を上げているところを見ると、桜を愛でているのだろうか。




フランスにあるゴールドスミス邸の1つ。
中でもここは庭が広大で美しい館だ。
その南の端に、一本の桜がある。

茫と春霞む夜、ソロモンはアンシェルを花見に誘ったのだった。





グラス片手に立つ、その姿にソロモンは見とれた。
とても大きい訳ではないのに、アンシェルの姿は見る者を圧倒する。
ある者はそれを威圧的と感じ、ある者は不遜と思う。
けれど、一様に頭を垂れる事には違いない。

ソロモンもその一人である。
ただし、恭しく頭を垂れる彼の胸中を満たすのは、
他の誰とも異なるもの――――なのだが。

くいとグラスを呷る、アンシェルの大きな手に目が惹きつけられる。
手入れが施された、綺麗な曲線を描く爪。
長い指を3分するごつごつとした関節。
その元にある、肉厚だが柔らかい掌。

じわり、と熱が上がる。

シャツの袖口から覗く、意外な白さを見せる手首に、ぞくっと感じた。
酒を通して上下する喉仏にも。


目が、離せない―――――


ソロモンはうろたえた。
明らかに欲情する自分、これは酒に酔った所為だろうか。
見つめるアンシェルの手と、同じ部分とは思えない
華奢で繊細な指が己の唇に触れ、無意識になぞった。

そよ風に乗って、微かに甘い香りが流れた。
再び、はらりと桜の花びらが舞い落ちる。

ひらひらと、数えられる程の花片は夜の闇を踊り、
一枚がアンシェルの頬に辿り着いた。
居心地が良いのか、落ちる様子は無い。

ソロモンは手を伸ばした。
触れれば、何だとアンシェルが振り向く。

暗褐色の瞳に、射竦められた気がした。
震えが背中を駆け上がる。


―――――……欲しい………


いったい己の身体はどうしてしまったのか。
零れる吐息は熱く、瞳は潤んでいるに違いない。

ソロモンは僅かに震える手で、アンシェルの頬に触れた。
そっと払う。

花片は微かな風に揺れて、ゆっくりと地面に向かった。
それを目で追ったアンシェルの唇に、白に近い薄桃色が止まった。

欲しいものはここだよ、と示すように。
同時に先ほども感じた、微かな甘い香り。


自分は桜に酔っているのか。
この、満開の桜の花に。


唇を寄せ、舌で花びらを舐めた。
ソロモンの口内に、あの甘い香りが広がる。

その香り、だったのだろうか。
ソロモンの理性を食い破ったのは―――――

いつもは己のものを覆う、アンシェルの唇を舌でなぞった。
幾度も。

もはや花片は舐めとってしまって、彼の唇には薄桃色は無いのに、
止められない。
熱い吐息を零しながら、ソロモンは唇を舐め上げる。


漂う甘い香りが強くなった気がした。


そして。
ソロモンの舌はアンシェルの唇を割り開いた。
僅かに背伸びして、両手で頬を押さえる。
奥で息を潜めるアンシェルの舌を求めて、蠢く。

いつしか、アンシェルの腕がソロモンの腰を抱いていた。
首を傾げ、熱い息を吐く弟の唇を―――――塞いだ。




ああ。
その微かな声を聴いたのは、満開の桜と、上空の細い月のみ。