アレが出て行った

ソロモン・ゴールドスミスとして生きると
己の意思で小夜のシュヴァリエになると

ディーヴァを捨てて………
そんなことは―――――

許されない
在ってはならないのだ










狂い咲き  −side A−










アンシェルの邸宅。
人の手の行き届いた庭園は、季節季節に色を競い、様々な表情を見せる。
しかし、過ぎ去ろうとする夏と顔を覗かせる秋が交錯するこの時期に、
ほころぶ花は少ない。

その中をゆっくりと、アンシェルが進む。
季節が去り往く庭は寂しさを漂わせる。
それを彼が風情があると言い表した時から、アンシェルはこの手の寂しさを
嫌いではなくなった。

けれど今は、彼の暗褐色の瞳にそんな庭が映らない――――瞼には昨日の光景が
焼き付いていて。





赤い夕日の中、金の髪が揺れる。
哀しみと強い意志が混在する表情で別れを告げた彼の纏うスーツは、
常とは異なる黒。

朱を背景にした金と黒――――そのコントラストが、ぞっとする程映えて。
見惚れずにはいられなかった。
決別を告げる彼と争い、決着をつけることも無いまま消え去っても尚、
アンシェルはその姿を美しいと思った。





何処に向かっているのか、自分にも解らない。
庭より先に早くも主役交代を済ませたらしい、ひんやりとした風が頬に
触れていった。

風に乗って、アンシェルの目の前を紙片のようなものが舞う。
歩みを止め手に落ちたものを見れば、それは僅かに色付いた花片。

桜………か?
こんな時期に?

訝しげに目を細めるアンシェルに、強い風が吹き付けた。
同時に、視界が白く染まる。

花吹雪だった。
大量の桜の花片が風に散り乱れ、舞う。

その先に、あの桜があった。
幾度となく、その下を訪れた。



花を愛でるために。
酒を味わうために。

そして―――――彼を抱くために。



薄桃色の花の下で、声を上げる彼の姿が浮かぶ。
時には押し殺し、時には狂ったように。

彼の上げる声を支配するのは自分だった。
この木の下で、自分の欲求が望む通りの喘ぎ声が響いていた。



東洋では、桜の木の精は若く美しい男性だと云う。
まるで、彼のようだと思った。

それを伝えると、光栄ですと嬉しそうに笑った。




その木が、狂っている。
彼のようだと思った桜が。
彼が出て行ったこの時期に、狂い咲いている。




ざあっ。
強い風が整えられた暗褐色の髪を乱し、満開の桜の枝を嬲る。
髪を押さえるアンシェルを、花びらが包む。





白い闇の中、桜の木がぼんやりと光る。
花片を降らせる枝の下、青年が現れた。

あの晩のように、濡れた瞳でアンシェルを誘う。

これは幻だ。
ならば―――――



一度そうしてみたいと思った。
ずっと試してみたいと思っていた。

それを想像しただけで、熱が上がり興奮を覚えた。



アンシェルはその細い首に手を掛ける。
ソロモンはうっとりとした表情で、笑った。

脈打つ首筋に触れる手に、ぐっと力を込める。
白い肌に指が喰い込んでいく。
ソロモンの微笑みは淫らで、深みを増す。

更に力を込める。
ソロモンの顔が歪んだ。逃れようともがく。

それを押さえつけ、もっと強い力で握った。
すると―――――――――
くっと低く細い声と共にソロモンの身体は崩れ落ちた。

そして、アンシェルの腕の中で、幾千の花片となって消えた。







いつのまにか風は止み、はらはらと桜が舞う。
アンシェルは立ち尽くしていた。

さぞ、興奮するだろうと思っていた。
かつて無いほどの快感に、耐え切れず達してしまうかもしれないとも
思った。



けれど。
アンシェルは呆然と立ったまま。
その身体を満たすものは、快楽や興奮とは全く異質なものだった。



胸の奥底から何かが溢れる。
止めることが出来ない。

痛くて、苦しくてたまらない。

喘ぐように口を開き、息を吸う。
苦しい。



胸を押さえ、よろけながら桜に辿り着く。
幹に手を付き、肩で息をした。



触れてみなくても、自分が涙を流していることは解っている。
胸を塞ぐ痛みと苦しみが、彼を失った事実から発生していることも。

何て苦しいのだろう………
溢れる涙もそれを癒してはくれない。
それどころか、頬を伝う毎に苦しみは増した。



こんな感情は、知らない。
自分のものではない。

アンシェルは、そう繰り返し呟いた。
自分に言い聞かせるかのように。

向きを替え幹を背に、崩れるように座った。
狂い咲く桜を見上げる。
花片が雪のように、乱れ舞う。
その様を、見つめていた。涙が止まるまで。















やはり許されない。
勝手にシュヴァリエの列を離れ、ディーヴァを捨てていくなど。
いくら彼女が許しても、それはあってはならないことだった。

アンシェルは立ちあがる。

許せない。
この私の命に背くことなど、絶対に許せない。
私の元から離れていく、そんなことを許すことなど出来ない。

舞い散る桜の花びらの中を、歩き出した。

裏切り者の末路は、陳腐だが決まっている。
彼に死を与えるのは、長兄たる自分の役目だ。
この手で―――――

アンシェルは振り返らない。
狂い咲く桜が、それを見送った。