「ソロモ〜ン!」

自分を呼ぶ大きな声に何事かと振り返ると、いつの間にか至近距離に居た人物に
頬を両手で挟まれた――――そう認識するより早く、接吻された。

自分の背後に音も無く立つ事が出来、尚且つ、こんな悪ふざけをする人物は一人しかいない。
キスは深くなり、相手の舌が咥内を舐るが、ソロモンは抵抗もせずしたいようにさせている。

ぷはっと大きな呼吸音と共にソロモンを解放したのは、やはり、ネイサンだった。
最近シュヴァリエに列せられたこの男、問題行動も多いがどこか憎めない。

手の甲でぐいと口元を拭うと、にこっと笑う。

「可愛い弟君から愛の詰まったお届け物よっと。じゃねっ♪」

声を掛ける間もなく、ネイサンは掻き消す様に居なくなった。

アンシェルの館の、規則的に並んだ窓から午後の日が斜めに差し込む長い廊下で、
一人残されたソロモンは2,3回目を瞬かせる。

彼の奇行は今始った話ではない。

仕方が無いと1つ肩を竦め、今回はそれほど突飛なものでもないなと思い直してくすっと笑った。
ソロモンは、これから日が落ちるまでにこなさなければならない仕事を脳内で確認すると、
冬の陽と影が交錯する廊下を歩き出した。










kiss carrier










同日夕刻。

所用を済ませ、館に戻ったソロモンにジェイムズが近寄る。
平素は表情にあまり変化の無い彼の顔に苛立ちを認め、少し驚いた。

低い声でジェームズが呟く。

「おまえはネイサンに甘すぎる・・・!」

踝まである外套を執事に渡しながら、何事かと考えを巡らせれば、出掛ける前の奇行に思い当たった。
無理やりしようとするネイサンと、必死で嫌がるジェイムズがリアルな映像として脳裏に浮かび、
苦笑が零れそうになる。
笑いを噛み殺しながら、それでも弧を描きそうになる口元を右手で隠しつつ訊ねた。

「また・・・・・何かしましたか?」
「いいから、来い!」





強引に腕を引かれて着いた場所は、館の3階にあるアンシェルの書斎だった。
壁には造りつけの暖炉があり、内部が赤々と燃えている。応接の椅子テーブルを置いても
まだ十分に空間を残すその部屋は、書斎というよりは居間という方が相応しい。

被告人宜しく中央の椅子に座るネイサンを取り囲むように、アンシェルとカールが陣取っていた。
斜めに腰掛けるネイサンは、前屈みの姿勢で両腕と足を組み、拗ねたように口を尖らせていた。

「もうちょっとだったのにぃ。人の恋路を邪魔すると馬に蹴られて死んじゃうのよ、アンシェル」
「ディーヴァにまで手を出すからだ・・・・・せめて私までで、済ませておくべきだったな」

その台詞にソロモンは思わずアンシェルの顔を見た。


この兄にも、したのか?


黒と金の頭が重なり合う光景を想像し、眩暈が起こる。
どういう訳か―――考えたくないのにどんどん細部まで想像が及ぶ。
軽い嘔吐感すら覚え始めたソロモンを救ったのは、ジェイムズが吐き捨てるように言った台詞だった。

「おまえの時点で止めさせておけば良かったのだ!」
「すみません。僕も、まさかディーヴァにまで魔の手が及ぼうとは思いませんでしたから」
「魔の手って何よぉ!」
「大体貴様はふざけすぎだ!」

茶々を入れたネイサンに正対したジェイムズが、挑むように一歩踏み出す。
しかし、ネイサンが口角を上げながら下から掬い上げるように見やると、ぎょっとして後退した。

その行動にネイサンの最終目的は解ったが、そこに自分やアンシェル、ディーヴァやカールがどう絡んでいるのか。
皆目見当のつかないソロモンは、その疑問を口にした。

ネイサンは背を預ける格好で椅子に深く腰掛けると、"a fable"と言った。

「アジアの寓話でね、一本の藁を会う人ごとに物々交換していって、とうとう大金持ちになるって
 いう話を聞いて、閃いちゃったのよ♪」
「ちょっと待て。そうすると、僕は―――――藁だということじゃないか!」

一番最初はカールだったのか。
キスしてきた時のネイサンの台詞からするとすると、自分は2番手ということか。
ならば、あまり高価な部類ではないな。

そうして自分の次は、ソロモンのキスを受け取った、いや、押し付けられた相手は・・・・・

"あがり"のジェイムズが望むのは、ディーヴァの接吻以外はありえない。
まあ、ネイサンが介在するのだから誰からでも欲しくはないだろうが。
すると、自分のキスの届け先は長兄しかいない。

兄さんが僕のキスを喜ぶとも思えませんがね。
苦笑が零れる。





つらつらと埒も無い事を考えていると、書斎中央の騒ぎが大きくなった。
座ったままのネイサンに、立ち上がったカールが声を荒げている。
そのカールを嗜めているのがジェイムズだが、二人に釣られて彼もいつになく声高になっていた。

「僕が藁とはどういう意味だと訊いている!」
「例えじゃない。気にするほどの事も無いでしょ」
「話を逸脱させるな!!」
「だいたい〜、藁だっていーじゃない?ちゃんと役に立つだし?」
「貴様!!僕を愚弄するのか!!!」
「藁から離れろ!そもそも、誰一人そんなものを届けろと言っていないだろう!!」

唯一人ソファーに座ったまま、げんなりとその様子を眺めていたアンシェルが、つと窓に目をやった。
視線を追ったソロモンが窓ガラスに顔を向けた途端それは派手な音を立てて開き、
華やかな声と共に2月の冷たい風が吹き込む。

「あら、あたしは頼んだわよ」
「ディーヴァ!」

薄手の白いネグリジェ一枚という格好に、ソロモンは素早く上着を脱ぐ。
ディーヴァは文字通り飛ぶ様に移動すると、恭しく立ち上がったアンシェルのソファーに腰を下ろした。
ソロモンは己の上着を、彼女の細い肩に掛けかける。

「冷えますよ」
「ありがとう、ソロモン。で、ネイサン、まだジェイムズに届けてないの?」
「ごめんなさい、ディーヴァ。邪魔が―――――」

多いんですもの。
言いながら、ちらりと辺りに視線を投げる。
効果は絶大でカールとジェイムズは露骨に怯み、アンシェルでさえも顔を顰めた。

「じゃあ・・・あたしが手伝ってあげる♪」
「ディーヴァ!?」

愛しくてたまらない姫に抱きつかれ、一瞬嬉しそうな顔をしたジェイムズだったが、
唇を尖らせて近寄ってくるネイサンに気が付き顔色が変わる。

滅多に聞けない声で、滅多に聞けない台詞を口にしながら、ディーヴァに許しを請うジェイムズ。
ディーヴァに命ぜられてジェイムズを渋々押さえつけながら、だが、女王に命ぜられた喜びを
その顔に滲ませるカール。
その騒ぎを呆れた様子ながらも、微笑んで見つめるアンシェル。



暖かくて幸福な風景。



それぞれに考えるところがあり、一枚岩の強固な意思で繋がれているとは云い難い事は理解しているが、
今この時は、ここに居る皆の心は暖かいもので満たされているに違いない。

そうソロモンは思う。
この光景がずっと続けば良いのに、とも。



ディーヴァの開け放った窓から吹き込む風が強くなった。
ソロモンは窓に手を掛ける。

既に陽は落ち、残照が僅かに地平線を赤く染める。

まだ夜という時間には早すぎるが、ディーヴァはネグリジェを着ていた。
"眠りの刻"が近づいている。

何度経験しても、慣れる事は無い感情。
30年もの淋しい時間を過ごさねばならない事が、シュヴァリエたちの心をささくれ立たせる。
だからこの時期は、彼らの間では些細な事でも諍いになっていたのに―――――

今回は違う。
ディーヴァに笑って『おやすみなさい』と言えるのではないかと思えるほど、穏やかな気持ちだ。

問題児だと思われがちなネイサンだが、人の心の機微にはとても敏感だ。
そのことを知るソロモンは、彼を嫌いになれない。彼の奇行には辟易する事もあるが。

次の目覚めの刻までは、この暖かい空気をネイサンが運んでくれるだろう。



しかし、世界は変わる。
ヒトの寿命よりは長いが、人類の歴史から見ればほんの僅かに過ぎない己の知る世界は、戦争の間隔は狭まり、
人々の欲望が急速に増大しているように見受けられる。

それが人間の間でのみの現象で済んでいれば良いが・・・・・

地平線に現れた、黒々とした巨大な雲を見る。
明日は雨だろうか。



「きゃ〜、やったぁ!」
「ディーヴァ、ありがとう!」

書斎の賑やかな声で、我に返る。
振り返れば、ディーヴァがジェイムズとカールを両脇に抱え、キスしている。

「ご褒美〜♪」



自分の抱いた杞憂が可笑しく思えた。
この光景を守るためなら何でも出来るではないか。
これは他の兄弟達も同じ―――――それで守れぬものなど、無い。



「ほら、アンシェルも、ソロモンも!」



微笑んだソロモンは、そっと窓を閉めると、ディーヴァの元へ歩み出した。