どうして、早く大人になりたいのだろう。 大人になんかなったって、私は、私は―――。 自分の思うとおりになんて、何1つ為らないというのに。
照明の落ちた、暗い部屋。 見慣れたものだが、殺風景だと自分でも思う。 書き物をする為の机と椅子が1脚、作り付けの箪笥に一人用の寝台があるだけ。 最も狭い部類に入るだろうが、それでもこの紫禁城の中に一室を頂けるのは ありがたい。 星刻はそう思っている。 一日の汗を流して刀の手入れを済ませると、それを枕の上に置いた。 いつ何時呼び出されても、飛び起きてすぐ対応する為だ。 自分の命はあの方に与えられたもの―――あの方の為なら、どんな事でも 出来る。 星刻は心の内に主の小さな姿を思い描くと、床に就いた。 1刻も経たないうちに控えめな呼び出し音が耳を打つ。 誰何をするまでも無い、その人物専用の音色に、星刻は跳ね起きた。 「どうされました!?」 「ごめん、寝てたよね…」 「何かあったのですか?すぐに参ります!」 そう答えたものの、この時間天子はもうプライベートエリアに居る。 奥の間―――異性禁制のエリアだ。 例え天子本人からの呼び出しであっても、男は入れない。 今は完全な女の城。 無論天子もそれを承知している。 何しろ、生まれたときから居る場所だ。 その決まりが如何に厳格か、急病で医師の治療が必要な場合でさえ、 女医若しくは奥の間から天子を出すという風に守られている程なのだから。 公式には、彼女が生を受けて以来、男は誰一人として足を踏み入れた事の 無い場所だった。 けれど、それはあくまで表向きの話。 人が作ったものにはどんなものでも、抜け道があるものだ。 「いつも、ごめんね…」 無機質な通信機械から聴こえてくる本当にすまなそうな声音に、星刻の頬が 緩む。 大きな目を伏せて、眉根を寄せている彼女の顔が目に浮かぶようだ。 けれど、星刻はすぐに表情を引き締めた。 命を差し出して忠誠を誓う主君を、可愛らしいなどと思うのは不敬だ。 「すまないなどと、とんでもありません」 すぐに参ります。 いつもの落ち着いた声でそう応えると、星刻は刀を掴み部屋を出た。 July 7 通路ではない場所をいくつも経由して、奥の間に降り立つ。 何ルートかあるが、今回星刻は一番安全な"通路"を選んだ。 天子の声のトーンから、緊急のものではないと判断したからだ。 以前は毎回かなり危ない――人に見られる危険性の高い――通路を 通っていた為、何度となく冷や汗を掻いたが、こうやって彼女の声から 緊急度を判断出来る様になって大分楽になった。 足音を忍ばせて寝室の扉の前に立つ。 指で巨大な扉を叩いた。 トン、トン、トトンと二度繰り返すとそれはゆっくり開いていく。 その隙間にするりと身体を滑り込ませれば―――思ったとおり、 困ったような表情で天子は星刻を見上げた。 「どうされました?」 「…うん…」 通路も灯りは落ちている。 そこを、やはり足音を立てないように気をつけて星刻は歩いた。 この寝室――10以上も部屋のある巨大な空間をこう呼ぶのはあまりにも 不自然なのだが――この時間は天子独りだ。 13歳を過ぎれば独りで寝られると、消灯の後は全ての官女を下げてしまう 様になっていた。 それが分かっていても、後ろめたさからなのか、星刻はつい足音を 潜めてしまう。 もう一度招いた理由を問うてみた。 けれど、返ってくるのは「うん」とか「あの」とかいう煮え切らない ものばかり。 少し広めのホールのような場所で、星刻は膝を折った。 それでようやく天子を見上げる事が出来る。 小さな手を取って、指先に口付けた。 「天子さま、何でも仰ってください」 「………どんな話でも、信じてくれる?」 「勿論です」 真っ直ぐ見上げる星刻の視線から、すっと横に顔を逸らした天子だったが、 すぐにくいと正面を向く。 そうして、ぎゅっと引き締めていた唇を開いた。 「お化けが出るんだ」 「…お化け…………幽霊の事ですか?」 「うん、そう」 あっけに取られた表情に、天子が僅かに顔を曇らせる。 それに気づいて、星刻は慌てて口を開いた。 「どこに出るのです?」 「あっち…クローゼットの入り口…」 星刻は顔を向けた。 通路の一番奥の部屋、そこは天子のプライベートの衣装室になっている。 何度も呼ばれて来ている星刻も、いまだ入ったことの無い場所だった。 「毎日じゃないの。だいたい2週間に1回で、時間は同じ、ぴったり23時」 「いつからですか?」 「…3ヶ月くらい前から」 「―――!?そんなに前からですか!」 もっと早く呼んで下されば、との台詞に天子は下を向いた。 小さな、小さな声で言葉を紡ぐ。 「だって、そんなこと信じてくれるの星刻だけだと思うし、それに………」 「天子さま?」 「いつまでも子供だって、また皆から言われてしまう…!」 ああ、そんなこと…と言いかけて星刻は口を噤んだ。 独りで寝られると強く主張した事を始め、このところ天子は早く大人に なりたいと事在るごとに口にするようになっていたから。 星刻も何度も耳にしている。 何をきっかけにそう思うように変わったのかは分からないが、その思いの 強さ、真摯さは十二分に知っているつもりだった。 「それで、これまで我慢されてきたのですね…」 ご立派です。 星刻は改めて臣下の礼を取った。 少し頬を赤らめた天子が、ぶんぶんと顔を振る。 「そんなことないよ!やっぱり怖くなって、それで星刻を………」 「何か変化があったのでしょう、その幽霊に」 「そうなんだ…。昨日は声まで聞こえてしまって。それまではただ姿が  見えるだけだったのに…。明日も来るって…」 「声が―――その幽霊は、どんな格好なのですか?」 時計を見ながら、星刻が訊いた。 天子も時刻を確認して身体を強張らせる。 間もなく23時。 立ち上がった星刻が、天子を庇うように背中を見せた。 流れる漆黒の髪、広い背中―――それを見上げた天子の頬は、更に赤く色を 変える。 あの足音が聞こえてくるまで、天子はそれを見つめていた。 「幽霊は、兵士の姿ですか?」 「―――!そう…!」 扉からそうっと入ってきた兵士は入り口から通路を進み、二人の前を 通っていく。 簡易の甲冑を着けた兵士の格好は、星刻にも覚えがなかった。 かなり前の兵士らしい。 兵士は無表情で角を曲がり、真っ直ぐにクローゼットとして使用している 部屋に向かう。 次第に早まる足音。 兵士は半ば走るようにして、扉の前に立った。 裾や襟元を直して、姿勢を正す。 すうっと1つ息を吸うと、彼は口を開いた。 「天子さま…、参りました」 何か応えがあったのだろう、兵士の様子が変わる。 固く能面のようですらあった表情が綻ぶ。 目を細めて、口角を心持ち上に上げて。 頬を紅潮させて微笑むその顔からは、幸福という文字だけが感じられた。 その姿が薄くなる。 同時に扉は開いていないのに、彼はその中に入っていった。 ―――吸い込まれるかのように。 はぁ…。 その吐息はどちらのものか。 部屋に響いた音に、星刻は我に返った。 慌てて振り返れば、天子も同じように現れた幽霊に飲まれていたようで。 クローゼットの方を見ながら、星刻の腰の辺りの服地にしがみ付いていた。 「あ、あの…天子さま…」 「わっ、ごめん!!」 慌てて離した手を自分の背中に隠す。 真っ赤になった顔とその仕草に、星刻は思わず噴出した。 いつまでも治まらない笑いに、天子が恨めしそうに呟く。 「星刻ぅ…!」 「す、すみません…」 何とか笑いの発作を鎮めると、二人は再び幽霊の消えた扉を見た。 人の気配など、全く感じられない。 消えた様子といい、天子の言うとおり間違いなくこの世のものではない。 星刻は天子に振り返った。 「明日の朝一番に術士を呼びましょう。そうすれば―――」 「ううん!いいの!」 もういいの、星刻。 お祓なんて必要ない……ううん、そんなことしないで…! 天子の必死の言葉に、星刻は頷く。 「天子さまがそう仰るのならば、術士の手配は致しませんし、  清めることもしません。ですが、そうなるとあの幽霊が………」 「いいの、もういいの…」 「恐ろしくは無いのですか?」 「まだちょっとは怖いよ…でも、いいの」 「天子さま…」 「大丈夫だよ、私は大丈夫」 星刻も見たでしょ? あんなに幸せそうに笑って。 きっと、扉の向こうに居るんだよ。 待ってるんだよ、あのひとを。 「引き裂くなんて、出来ないよ…」 天子の呟いた言葉に、星刻はため息をついた。 それは安堵のため息で。 「ええ、そうですね」と言葉を返した。 自分もそう思ったから。 あんな人目を憚る逢瀬なのに、あの表情。 これからどんな時間を過ごすのだろうと思う。 彼と、その相手である天子は。 あの兵士の姿を見たとき、まるで―――。 星刻はちらりとその男の消えた扉に視線を投げて、微かに笑った。 「では、怖くなくなるまで自分が参りましょうか?」 「え?」 「呼んで頂ければ、すぐに参ります」 「でも、こんな遅い時間に…」 「2週間に1度くらいでしたら、天子さまも少し夜更かしをされても  大丈夫でしょう?」 「私は良いけれど、星刻が疲れてしまう…!」 「自分は武官ですよ?体力だけは自信があります」 跪いた格好で星刻は笑う。 「このくらいの時間になれば星が綺麗です。夜空の話など、如何ですか?」 「星刻、詳しいの?」 「名前に抱いているくらいですから、少しは」 「本当!嬉しい!占星術の先生は、術の方面ばかりでお話は  してくれないんだもの!」 「では、早速始めましょうか。今夜は?」 「―――!七夕!」 「その通りです。実際の夜空を見ながらの方がいいですか?」 「うん!」 天子がくるりと踵を返した。 タッタッタッと駆け出す。 その小さい背中を目で追いながら、星刻は呟いた。 「あんたたちの邪魔はしない。だから―――私の天子さまをあまり  怖がらせないでくれよ…」 何の物音もしない扉を見やり、自分も駆け出す。 来たときと同じように出来うる限り足音を立てない方法で走りながら、思った。 紫禁城の過去の設計図は隠してしまわなければ。 あの位置に寝室の扉があったのは、ほぼ300年ほど前だ。 その後、電子機器の配線の都合で位置が変わったのだ。 変わるまでの間に、女帝が立ったことは無い。 つまり、あの兵士の相手は―――。 まだネンネの天子さまには刺激が強すぎる。 自分にしがみ付いただけで、慌て赤面した姿を思い出し、再び星刻は 笑ったのだった。
どうして早く大人になりたいのか―――分かった。 そうだったのだ。 早く大人になって、早く、早くこの気持ちを伝えたい。 胸を苦しくさせる、この思いを。 星を名に抱くあの人に。
---------------------------- 20080706 七夕の夜には 愛しい人に逢いたい どんなに遠く離れていても