青い絵の具を太い筆で塗りたくったような空に、薄い雲がゆっくりと流れていく。





さわさわ。
雲を流す風は、草原も渡る。
春の穏やかな風に撫でられた草が、それらの見えない"手"の位置を示すかのように順々に頭を垂れていくのだった。





広い草原の一隅で、ソロモンは腕を枕に寝そべり空を見上げていた。
ジーンズに淡いブルーのボタンダウンのコットンシャツといった、かつてのCEO時代を知る者であれば
驚くようなラフな服装である。





さわさわ、さわ、さわ。
そんな葉の擦りあう音に混じって、鶯の啼き声も聴こえてきた。
近隣の林に居るのだろうが、その愛らしい姿は見えない。
その可愛らしい声にソロモンは微笑んだ。










―――if 02










中天に在った太陽が大分傾いてきた頃。
草擦れと鶯の声だけが響いていた草原に、さくさくと草を踏む音が加わった。
足音は次第に大きくなり、それは草のベッドに横になるソロモンの頭の上で止まった。

見上げた青い瞳に映ったのは、逆光の中の大きな黒い影。
ソロモンは眩しげに目を細める。
影はため息をつき、呆れたように言った。

「朝からここに居るのか?」

ソロモンはその声音にくすっと笑うと、身体を起こした。

「はい、兄さん。鶯の声を聴いていたんですよ」
「鶯?」
「あちらの森に居るんです。彼らは用心深いですからね、姿は見えないのですけれど」
「…………それを一日、聴いていたのか……」
「ええ。お陰で大分聴き分けることが出来るようになりました」

あの森に今日は2羽居るようです、と見上げて微笑む。
悪びれない様子にアンシェルはもう一度ため息をつくと、すっと手を差し出した。

少し驚いたソロモンだったが、躊躇いなく大きな手を握った。
ジーンズに付いた草を払い、アンシェルに並んで立つ。

彼もまた砕けた服装だ。
流石にソロモンのようなジーンズではなかったが、茶のカーディガンに細いチェックのシャツ、
こげ茶のスラックスといったいでたちである。

「兄さんこそ、どちらに?ぼくが家を出る頃にはもうお出かけだったでしょう」
「ああ―――――買い物だ」
「何か不足するものがありましたか?すみません、仰って頂ければ、ぼくが―――」
「構わん」

久しぶりにブイヤベースが食べたくなってな。
そう言いながら、ソロモンの背中を払った。

この街の市場で、旨いブイヤベースを出す店があったろうか。ソロモンは記憶を手繰る。
しかしその作業はゴールの辿り着くことはなかった。
続くアンシェルの言葉によって遮断されてしまったから。

「おまえの分も作ってある」

今、何と……
作って…ある……?

「そんな意外な顔をするな。実験と大差ない」
「…兄さんが……料理を?」
「―――――可笑しいか?」

思わず『はい』と返事しそうになるのを堪えて、首を横に振る。

「おまえが知らないのも無理はない。料理したのはディーヴァにだけ、だったからな」

大昔の話だ。
言いながら、アンシェルは手に提げていたブランケットをふわりと広げ、
ソロモンの肩に乗せた。

「―――あ」
「まだ冷える」

柔らかいブランケットは羽のように軽く、暖かい。カシミヤだろう。
ソロモンは、淡いベージュのそれをくるりと身体に巻きつけた。

「……暖かいです、兄さん」
「こんな時期に終日寝転がっているからだ。身体が冷えたのだろう」

アンシェルは苦笑している。



違うんです、兄さん。
いえ、身体が暖かいと感じたのは事実ですけれど。
それ以上にもっと、もっと暖かくなったんです―――――ぼくの心が。
あなたの気遣いが、嬉しくて、嬉しくて。



ソロモンは決めた。
兄の手作りのブイヤベースを囲んで、今日の2羽の鶯の話をしてやろう、と。

これまで聴き比べてきた鳥たちとは違い、それは縄張りを争うような、
メスを競うような声ではなかった。
聴こえてくる方向や、届く声の大きさからして、2羽はごく近くで啼いているというのに。

似たような声質で、交互に啼く。
まるで会話をしているかのように。

2羽は兄弟なのではないかと、思ったことを。
それがとても嬉しかったことを。





アンシェルは踵を返した。
帰るぞ。
言いながら、もう歩き出している。

振り返りもしないで。
ついて来る事を疑いもしないで。

ソロモンは追いかけた。
兄の大きい背中を。