煌々とした月明かりの下、水分を多量に含んだ空気が満ちる場所、沖縄。
中層のビルの屋上に2つの影があった。

眼下の光る窓を見下ろしている。

カーテンの隙間から覗くのは1つのベビーベッドに寝かされた2人の赤ん坊。
よく眠っているようだ。

かなりの時間、二人はそうしたまま窓を眺めていた。

ふいに。
細い影が動いた。
もう一つの大柄な影に振り返ったらしい。

「兄さん、今・・・」
「―――小夜が眠ったな」
「ええ」

二つの影は海のほうに顔を向けた。
その先で、たった今小夜が長きの眠りに付いたのだ。

湿った風が、細い影の髪を嬲る。
月の光を吸収したかのような見事な金糸が揺れた。









―――if











再び生暖かい風が二人のスーツを揺らせた。
風によって自分が動くことが出来ることを思い出したかのように、大柄な影が踵を返した。

「兄さん・・・?」

アンシェルは答えない。
歩みも止めない。

その影が薄くなったように見えて。

どこかに行ってしまう・・・!
駆け寄ったソロモンは、兄の腕を掴んだ。

「兄さん!」
「・・・・・・何だ・・・」

緩慢な動作で振り返ったアンシェルは、いつもと変わらない表情、声音だった。

けれど。
その暗褐色の瞳にある光は、これまで目にしたことが無いもので。
ソロモンは言葉に詰まる。

アンシェルは、言葉を継がないソロモンに呆れたように云った。

「まだ、用があるのか」
「・・・兄さん・・・・・」

それ以上言葉が出てこない。
逆に、アンシェルの腕を掴む手は雄弁で、ぎゅっと力が篭められた。

サアッ。
強い風が二人の間を吹き抜ける。

大袈裟にため息をつき、アンシェルはソロモンの手に己のそれを重ねた。
やんわりと手を解く。

「おまえは―――――もう行くがいい」
「兄さん?」
「行くがいい、小夜の下へ」

おまえの選んだ女王の下へ。
そう云ったアンシェルは、とても穏やかだった。
目を見開いて自分を凝視するソロモンの金糸をくしゃっとすると、背を向け歩き出した。

10歩。
20歩。
遠ざかっていく。

ソロモンは、その大きな背を見つめることしか出来ない。

アンシェルはゆっくり静かに歩き続け、とうとう屋上の淵に立った。
肩越しに振り返る。ちらっと後を見やったのだろうか。
口元に笑みを刻んだ。

そして―――――すっと姿が消えた。






静かな海に、月が映っている。
寄せては帰す波に合わせ、その月影は揺れる。

広がる白い砂浜。
波打ち際に、アンシェルは居た。
手入れされた革靴を、波が撫でる。

アンシェルが手を動かした。
着慣れた臙脂の背広の内ポケットから、取り出したのは2つの赤い粒。
手のひらに乗せた、1センチほどのカプセルをじっと見つめる。

それから、特徴ある岩の上に輝く月に視線を移動させた。
暫く言葉を発することもなく、白銀の月を見上げる。

「見納めの月と思えば、感慨もあるな」

彼を知るものなら驚くほど、アンシェルは穏やかな表情をしていた。
僅かに微笑む顔に、静かに降り注ぐ月光。
アンシェルは、目を細めた。



背後から砂を踏む微かな音と共に、静かなテノールが流れた。

「兄さん」

振り返らず、アンシェルは応えを返す。

「しようの無い奴だ・・・・・何をしに来た?」
「兄さん・・・・・」
「おまえは、その言葉以外話せないのか」
「兄さん――――」

またも同じ言葉を繰り返すソロモンに苦笑し、左右に首を振る。

「・・・ソロモン」
「ぼくも、連れて行ってください」

苦笑が消えた。
ソロモンはアンシェルの手に視線を移す。

「それは、小夜の血・・・ですね」

まるで、『午後の紅茶はニルギリですね』とでもいう穏やかな口調で。
静かな口調のまま、言葉を続ける。

「いつお飲みなるのですか?」
「・・・・・・・・・」
「2つは必要ないですよね?ぼくに、譲って下さいませんか」
「・・・・・何故だ」
「何故?」

ソロモンは歌うように、投げかけられた問いを繰り返す。
背を向けたままアンシェルは問うた。

「おまえは小夜を選んだ。彼の者のシュヴァリエなったのだろう・・・?」
「・・・はい」
「ならば、何故そんな戯言を云う?」
「戯言ではありません。ぼくは・・・本気ですよ」
「ソロモン・・・・・?」
「確かに、ぼくは小夜のシュヴァリエの列に加わりました」

サク、サク。
白い砂を踏んで、ソロモンはアンシェルに近づく。

「でも―――――」



ぼくは、あなたの家族であることに変わりは無いでしょう?
今でもぼくは、あなたの弟ですよね?



振り返らないアンシェルの手を取る。
優しく指を一本一本寛がせていく。

アンシェルはされるがまま、しかし、顔は月を見上げたまま動かない。

「これを、使わないで頂けませんか?」

赤いカプセルが姿を現していた。
それを1つ摘み、砂の上に落とす。
それでもアンシェルは動かない。

「あなたがどうしてもというのなら、ぼくも従いますが
 ・・・・ぼくはあなたに死んで欲しくない・・・」

もう1つ摘みかけたところで、赤い粒は手に包み込まれた。

「・・・・・・何の為に生きる?」

ディーヴァは、死んだ。
そう呟いたアンシェルは、僅かに震えていた。

そんなアンシェルの大きな手。
ソロモンはそれを胸に抱いて、そっとキスをした。



「ぼくの為に生きては下さいませんか?」



静かなソロモンの声が、波間に響く。



「ぼくでは、あなたの生きる理由になりませんか?」



2度、3度と波が寄せる。
足元まで届いていたそれは、いつの間にか後退し、二人の周囲には白い砂が広がっていた。
波音だけが響く。



その静寂を破ったのは、アンシェルだった。

「貴様がディーヴァの替わり?役者不足にも程がある」

頭部を巡らせ、ソロモンを見る。

「この世にディーヴァの変わりなぞ存在しない、過去もこの先の未来とやらにも」
「・・・アンシェル・・・・・」

揶揄するような口調と、口元を歪ませたシニカルな笑い。
そして暗褐色の瞳には―――――強い光。

ああ、アンシェル兄さんだ・・・・・
ソロモンは嘆息した。

そんなソロモンの頬を撫でつつ、云った。



「おまえも、だがな」



その言葉に。
呆然と見上げたソロモンの青い瞳から、大粒の涙がぽろりと落ちた。
そのたった一粒の涙は、頬を伝うことなく落ち、砂の色を変えた。



アンシェルはソロモンに向き直り、覗き込むように顔を寄せた。
頤に手を掛け、固定する。

「おまえは"自分の為に生きろ"と云ったな。この私に
 ―――――身の程をわきまえろ。おまえが私と共に在るのだ」

細められた瞳に宿る光は強まり、口元の笑みは深くなっている。

「決して開放しないぞ。泣き喚こうが、懇願しようが―――――」

この私から離れることは、二度と許さん。
そう云って、動かないソロモンに口付けた。






啄ばむようなキスを幾度か繰り返し、頤から手を離す。
アンシェルは踵を返し、歩み出した。

すぐに付いて来ない弟に、いつものように声を掛ける。



「行くぞ、ソロモン」
「はい、兄さん」