Ice Doll


かつては世界に冠たる大企業サンクフレシュ社のCEOにして、現在は医学部に籍を置く
ソロモン・ゴールドスミスの事をそう呼ぶ者が多い。
事に同じ学部の者は、その別称だけで説明を必要としない程だ。

ソロモンが通う大学の方針として、彼ら医学生かなり早い段階で"現場"に出される。
研修ではあったが、病院という現場では彼らも戦力として動かざるを得ない。
医療の現場を直接肌に感じ、彼ら学生は優秀な医師と成るべく急速に成長してゆく。

反面、必ず患者の死というものを経験する。
何れはこういう死にも慣れ、また一々涙を零していては医者としてやっていけないのだが、
この時期の、特に最初の患者の死に接して涙を流さない学生はいなかった。


これまでは―――――


どんな患者の死に際しても、決して泣かない。
表情を曇らせることすら稀であるという。

それがソロモンの別称の所以らしい。


今日も、一人の患者が息を引き取った。
まだ7歳の男の子。
移植以外の方法では生命が危うい彼は、大の大人でものた打ち回る程の激痛に耐え、
途切れることの無い嘔吐を繰り返し、苦しんで苦しんで、それでも唯ひたすらにドナーを
待ち続けていた患者だった。
しかし、彼の適合者は現れることは無く、蝋燭の火が消えるように今日息を引き取った。

傍ではその苦しみを逃げることなく見続けた母親がはらはらと涙を零し、
少年の痩せて鈍い色をした頬を撫でている。

「よく頑張った。もう苦しむことは無い」と。

学生たちも、その様子に堪え切れず涙を拭う。
泣きながら、互いに抱き合う者もいる。
その涙には、己を含めた医者の力と技術の不足を思い、悔しさも含まれているだろう。
学生の中には彼を担当する医師に付いた者が大部分であったため、病室は沈痛な空気に包まれていた。

ソロモンもその一人だった。
いつもの如くかと彼を見た一人の学生が、母親の肩にそっと手を当てたり、
少年を撫でたりしている他の学生に目配せする。合図を受けてソロモンを見た者たちは、
一様に息を呑んだ。

ソロモンは瞼を伏せ、軽く下唇を噛んでいる。
長い睫は微かに震えているようだ。

(泣く・・・のか?)

病室の空気の変化に、悲しみに泣き濡れる母親も顔を上げた。
視線を合わせたソロモンは、微かに微笑み目礼すると病室を後にした。


リノリウムの廊下に出ると、同じ臨床班の学生が小走りにやってくる姿が見えた。
いつ病室を出たものか、明るく楽天的で少々変わっている彼が姿を消せばすぐに気が付くはずなのに。

しかし、この変わり者が実は人の気持ちに聡い事を知っているソロモンにとっては、
さほど意外なことでもなかった。
病室に居る学生全てが悲しみに沈む様子に、真っ先に自分が立ち直らねばとでも考えたのだろう。
大方、涙を消し気分を変える為にトイレででも顔を洗ったといったところか。

近づいてくると、想像通り額や頬にかかる髪が濡れている。
そうして、ソロモンに近づくと真っ赤な目で、にっこり笑った。

「後は引き受けるぞ」
「すまない」

ソロモンを追って廊下に顔を出した学生数名をがっしと抱えると、サイゴウは病室に入っていった。
室内では愁嘆場が続いていたが、学生たちは額を寄せ、ひそひそ言葉を交わしている。
「辛そうだったわね、彼」「結構普通じゃないか」「"アイスドール"の名も返上かしら」
「ちょっとぐっときたわよ」「不謹慎だぞ」、そんな台詞にサイゴウは苦笑し、ごちた。

「・・・解ってないのう」









屋上に上がったソロモンは、設置されているベンチに腰を下ろした。
背を預け、暮れかかる空を見上げる。
金星が瞬き始めていた。

あれだけの惨い結果を見ても、悲しいという感情が湧き上がってくることは無かった。
寧ろ、人間というのはこういう場面では酷く泣くものだったな、と再認識したほどであった。

顔をゆがめさせたものは―――――"彼"の不在という事実。

彼ら人間たちが悲しむ様を見て、もしも今"彼"が傍にいたのなら自分口にしたであろう言葉。
それに応えてくれる者がいないという事実を認識した瞬間、ソロモンの心は痛んだ。


ぼくたちはこんなに遠くまで来てしまっていた・・・・・
それは、ディーヴァのシュヴァリエとして、喜ぶべきことなのですよね・・・・・?


"彼"は頷いてくれたか、あるいは、仕様の無いことを言うと苦笑してくれたか。
いずれにしろ――――多分、間違いなくあの大きな手で、そっと自分の頭を撫でてくれただろう。


あなたと一緒だったから、ここまで来たというのに
あなたはもうぼくの傍にいない・・・・・アンシェル・・・・・



ソロモンが涙を流したのかどうか。
それ知るのは、宵の明星だけだった。