鉛色の雲が、空を覆う。
曇天の下、桜は満開だった。

小さな社のある、池のほとりの大きな木も今が盛りと薄紅色の霞を纏う。
その木の根元、晴はたった独りで佇んでいた。











――花冷え――











もう幾刻過ぎたろう。
草履は履いているものの、裸足の身体はしんしんと冷えてくる。
もう桜が咲いているというのに、いや、咲いたからなのか。
江戸の町には、まるで梅が咲く前のような寒さが戻ってきていた。

時折すそを巻き上げる強めの風が、肌に突き刺さる。
だが、晴は身じろぎもせず、道の彼方を見つめていた。

タッタッタッ。
砂利混じりの道を走ってくる音。
晴は、ぱっと顔を上げた。

木々の間に、翻る薄墨色の着物が覗く。
それは少し高くなった角を曲がり、真っ直ぐに晴に駆けて来た。
3尺ほど手前で土を蹴ると、晴の胸に飛び込んでくる。

「晴さん……っ!」

少し―――背が伸びたろうか。
手も足も、心做し長くなった気がする。
細いのは相変わらずだけど…。

2ヶ月ぶりの再会だった。
受け止めた蒼の身体を、晴はぎゅっと抱き締める。

うなじから立つ、微かな匂い。
蒼の匂いに混じるものに気づき、晴は腕に力を込めた。

昨夜も集まりがあったと聞いた。
また、呼び出されたのか……。

もう少し…。
あと少しの辛抱だから…。

「晴さん…痛いよ…」

腕の力を緩めれば、蒼が「はふ〜」と息をついた。
白い額に銀糸が張り付いている。
屋敷から走り通しで来たのだろう。
少し荒い息のまま、言った。

「僕も―――逢いたかった」

磁器のように白くて滑らかな肌が、少し紅潮している。
晴は少し屈んで柳腰に手をかけ、小さい子供にでもするかのように抱え上げた。

蒼も細い腕を回して、晴の頭を胸に掻き抱く。
愛おしくて堪らない。
それを伝える為に。



薄い桃色の花冠を抱く、桜の木の下に立つ晴の姿が目に映った瞬間、驚いた。

また、大きくなってる…!
背は伸び、胸や肩が厚くなり、腕も太くなっている。
ひょろひょろとただ伸びるだけの自分とは大違いだ。
次第に雄になっていく幼馴染が眩しく見えたのだが―――。

眼を瞑って、頭を両腕と胸の中に閉じ込めて、柔らかい髪に顔を埋めてしまえば、
変わらない。
屋敷で、神社で河原で嗅いだ匂いに、感触。

逢いたかった、僕も。
そう蒼は繰り返し、晴に顔を擦りつけた。

髪の感触を頬で味わっていると、薄い紅色が目に留まる。
指で抓み上げてみれば、それは桜の花弁だった。
晴の髪に点々と散る桜色は、結構な数ある。

抱え上げられたまま、蒼は桜を見上げた。

暫く眺めていたが、それでもようやく一枚降ってくる程度で。
蒼は、くすっと笑った。

トントンと肩を叩いて催促し、足を地面につける。
目の前の襟をくいと掴んで、晴の顔を引き寄せた。

「どれだけ待っていたのさ?」

問うてみても、晴は笑うばかり。
答える気の無いのを見て取ると、蒼は"ふう"と息をつき、
太くなりつつある首に手を回した。
袖から二の腕まで出てしまい、少し寒いけれど、直に触れる晴のうなじが温かい。

蒼は顔を傾けると、唇を重ねた。
晴もそれを受け入れる。



自分から唇を寄せたのに、逃げない晴に最初は戸惑った。
屋敷に一緒に居た頃はそんな雰囲気を漂わせただけで、眉を顰めていたのに。

今何をしているの?
いなくなってから、一体何があったの?

でも、それを口に出す事は出来なかった。
晴の唇はそれは優しく蒼に触れていたのに、身体に絡む腕に込められた力は、
痛みすら感じるほど強いものであったから。

今も、そう………。

ただ重ねられているだけの優しい接吻なのに、蒼を抱き上げる腕は
きつく身体に巻きついている。

蒼が、ぱちっと目を開けた。
いつからなのか、或いは閉じなかったのか、晴の瞼も開いていた。
極近くで視線を絡ませ、笑い合う。

その身体がふわりと浮いた。
蒼を抱えた晴は、桜から離れて小さな社に向かう。
いくつもない小さな階段に、華奢な身体をそうっと座らせると、
くるりと踵を返した。

「…晴さん…?」

背中からの声なのに、晴は立ち止まり降り返る。
"大丈夫だから"そう言葉が聞こえそうな穏やかな笑顔を見せ、池に向かった。
跪いて、懐から取り出した手拭いをまだ冷たい水で濡らす。
それを再び着物の胸に仕舞って、蒼の許に戻った。

片膝を土につき、細い足を取る。
優しく草履を脱がすと自らの太股に乗せ、濡らした手拭いで素足の甲を拭い出した。
ふんわりと温かいもので取り去られていく、泥。
足に飛び散り、こびりついたそれを見て、昨夜の雨を知る。

駕籠に載った夕刻には、まだ気配しかなかったのに。
いつごろ降り出したのだろう。

裾を割られて、身体を開かれて。
掻き回されて、啼かされて。

昨夜の蒼の記憶にあるものは、哂い声や煙草の匂い、そして耳元の獣じみた荒い息遣い。
行灯が四隅に焚かれ、朱塗りの小さな台の上で足を開かされた。

最初は張り形。
油を塗られたものが、自分の中を出たり入ったりする様を見せ付けられた。
零れてしまう喘ぎ声を、はやし立てる声、声、声。
聞きたくないと耳を覆おうにも、両手は後ろで括られていた。
それで嬲られ続け、暫くすると圧し掛かってくる黒い影―――。



はらり。



宙を舞った桜が蒼の意識を呼び戻した。
視線を落とすと、屈んでいる晴の姿が目に入る。
大切なものででもあるかのように、蒼の足を抱えて手を動かしている。
それを見て―――。

はたり。
涙が落ちる。
驚いて顔を上げた晴に何でもないと手を振るが、後から後から涙は零れてくる。

蒼は顔を背け、袖で目許を覆った。
微かに震える身体。
慰める言葉も、約束も今は持ち合わせていない晴は、ただただ見つめる事しか出来ない。



晴の目の前を、一枚の桜の花弁が舞い散る。
それはゆらゆらと宙を泳ぎ、晴の手元に落ちた。

すっかり拭われ綺麗になった蒼の足。
まだ冷たい空気に晒されて、ほんのりと赤く色を変えている。
薄紅色の踵が、晴の目を奪う。

―――口付けたい…。

その衝動を抑えて、晴は襟を開いた。
自らの懐に蒼の足を入れる。

驚いて振り返った蒼の頬を再び涙が伝う。
それを人差し指で拭い、蒼は笑った。

「……ありがとう、晴さん」

あったかいよ。
呟いた言葉は、花弁を巻き上げる一陣の風に消えた。


















---------------------------------------------------- 20080404 桜の木の下 守りたいと願うのに 自分には力がまだ足りない