fly me to the moon





街はクリスマス一色だった。 美しい黄色に覆われた秋とは異なった顔を見せるこのNYの街。 足下に広がった、夕闇に覆われつつある街は、ミレニアムのクリスマスということも 手伝って、例年に増して華やいでいた。 サンクフレシュ社のCEO、ソロモン・ゴールドスミスは支社の執務室でため息をついた。 NYの中心部に立つ高層ビルの17階に居を構え、彼の自室の窓 ―――もはや壁と云う代物なのだが―――には天井から床までの巨大なガラスが 何枚も填め込まれている。 ここはソロモンが自ら足を運び選んだ場所で、不動産業者も盛んにこのガラスと その眺望の良さを自慢をしていた。 なるほど、この眺望も曇りも歪みも全く無いガラスも美しいのだが――――― 窓際に立つソロモンは、もう一度ため息をついたのだった。 珈琲を運んできた秘書が声を掛ける。 「今晩のご予定ですが―――――」 「君ももう上がりなさい。今日はクリスマスでしょう?」 秘書は些か躊躇ったが、自分のボスが顔に似合わず言い出したら聞かない所がある事を 知っていたので、笑顔で頷く事にした。 「では、お言葉に甘えさせて頂きます。ですが、ソロモン様はどうなさいますか?  クリスマス・パーティの招待状にはすべて欠席で回答してしまいましたが」 「僕にだって予定はありますよ・・・・・クレア、そこで笑いますか?」 「す、すみません」 細い銀のフレームの眼鏡を掛けた40代の女性秘書は、何とか笑いを納めると 改めて失礼を詫び言った。 「昼過ぎからあれだけため息をつかれていらっしゃるんですもの。  おおよその予想はつきましてよ」 「理由が、今晩の予定とは限らないでしょう?」 「・・・・・そう、ですわね」 肯定の返事をするが、ダークブラウンの目は笑っている。 このクレア・オロノフは、ソロモンのCEO就任と同時期から第一秘書を務めていた。 気心が知れた、少し年の離れた姉のような存在だ。 "姉のような存在"に隠し事をするのは難しいことを経験で知っているソロモンは 観念することにし、肩を竦めた。 「相手と連絡が上手く取れていないのですよ。それでね・・・・・  どうもすっぽかされそうなので、今晩はケータリングでも頼むつもりです」 クレアは頭をゆっくり横に振った。 後ろに束ねられた、優しげに微笑む瞳と同色の髪が揺れる。 「あなたに頼り切りの僕だって、ここから電話を掛けてピザを注文することくらい出来ますよ?」 「そんなことをしたら、社内は大変な事になります。ワタクシが買って参りますわ」 「それこそ、いけない。帰る時間が遅くなってしまうでしょう?」 言いながら受話器を取り上げたソロモンの手を、クレアはやんわりと押さえた。 「あっという間にこの部屋は女性職員でいっぱいになってしまいます」 「・・・・・どうしてです?」 「CEOの執務室に一人分のピザが届いたら、その情報はすぐに女性職員に広まりますわ。  こういう時の女性の情報網を侮ってはいけません」 ソロモンは、そんな個人的な内容まで広まる事に不快感を覚えた。 それが顔に出たのだろう、クレアは手を離しながら仕方が無いという風にため息をついた。 「ご自分の魅力について――――良くお解かりですわよね?」 「・・・・・まあ、それなりに」 組んだ両手に顎を預け、表情は冴えないものの抜け抜けと言い切る。 「でしたら、取引先のご婦人方だけでなく、社内の女性にとってもあなたは  とても魅力的である事は分かっていただけるでしょう?」 ですから、と言葉を繋げたクレアの唇にソロモンの人差し指が触れた。 言葉を、遮る為に。 端整な顔には微笑みを浮かべて。 優しい柔らかい笑み。けれど、人を惹きつけずには措かない艶やかな笑顔。 彼の意図が分かっていても、魅了され言葉を失い息を飲んでしまうことが口惜しい。 「身を固める話なら、聞きませんよ」 冷めかけた珈琲を飲むと、ソロモンは席を立った。 まだ頬の赤みが引かないクレアに、1本の電話連絡と車の手配を頼む。 「アンシェル兄さんの見送りにはまだちょっと早いですけれど―――――  少し遠回りしてもらって、たまにはクリスマスの街並みを楽しんできます」 良いクリスマスを。 そう言葉を残して、部屋を後にした 街のイルミネーションを映す車の窓に、そっと額を寄せる。 外気を伝えるガラスはひんやりと心地良かった。 窓の向こう、華やぐ街には人が溢れていた。 本来は家族で静か過ごすものなのだが、ここニューヨークでは恋人と共に、 あるいは友人たちで集まり騒ぐ者も多い。 笑顔の比率が高い。 これから楽しもうとする人々の間を、必死の形相で走る人もいた。 今夜の晩餐用だろう、大きなケーキの箱を抱えた人。 全米チェーンのおもちゃ屋の袋から赤いリボンを覗かせ、それを旗めかせる人。 ――おやおや ――プレゼントはサンタクロースが昨夜のうちに置いていくものだろう? ――何と言い訳するものやら そう思い、苦笑する。 滑るように進む高級車の後部座席で身じろぎし、柔らかい牛革のシートに沈んだ。 薄いベージュのスーツの胸の部分に手を当てる。 内ポケットがある辺りの、角張って硬いものに触れた。 取り出せば、それは綺麗に包装された手のひら大の小さな箱。 中身は万年筆が1本だけなのだから、些か大きいのではないかとも思う。 こうして持ち歩いて、もう1週間になる。 今日幾度もすれ違いながら、殆ど言葉を交わせなかった顔が浮かぶ。 視線すら合わせられなかったかもしれない。 「・・・・・今日はクリスマスです、兄さん。家族が集う日、なんですよ・・・」 クリスチャンでないどころか、神の概念すら疎ましいと考える彼のことだ。 そんな習慣なぞ、鼻で嗤うことだろう。 ソロモンとて、頭からキリストの存在を信じているわけではない。 寧ろ、神というものに対するスタンスはアンシェルに近い。 しかし、所謂普通の家庭で育ってきたソロモンにとっては感謝祭もクリスマスも 大事な習慣だった。 信じる信じないは別にして、行うものであったから。 シュヴァリエとなってからも、それは変わらない。 兄弟が揃ったのは数えられる程だが、晩餐には毎年必ずアンシェルが傍らにいた。 見送り時に数分話すのがせいぜいだろう。 そう思い始めた時、天井から機械を通した声が聞こえた。 ソロモンの公務専用車は、運転等の前座席と後部座席が仕切られている。 間仕切りは無論、防音ガラスだ。 そのため、車両前部に座った秘書との会話はインターフォン越しとなる。 第二秘書はアンシェルの伝言を伝えた。 「間もなく離陸されるとの事ですが」 慌てて腕時計を見れば、予定よりも1時間以上早い。 ソロモンは指示を出した。 「直接滑走路に入れるよう手配を!」 白・赤・緑の電飾に彩られた空港にソロモンを乗せた車が滑り込んだ。 ゴールドスミス・ホールディングの自家用ジェットは既に滑走路上にある。 白い機体に誘導灯の青白い光が反射していた。 結構なスピードで横付けられる。 軽くタイヤを鳴らして止まった車から、素早く降りたソロモンは 秘書も待たずにタラップを上がった。 入り口に立つ黒尽くめのボディガードに軽く手を挙げ、中に入る。 ホテルのスイート並の調度が整えられた機内に、見慣れた臙脂の後ろ姿があった。 「お早い出立ですね。ロンドンでトラブルですか?」 「・・・・・いや・・・ニューヨークで、だ」 振り返りもしないで答えたアンシェルの言葉に、ソロモンは小首を傾げた。 CEOを務める自分に何も自分の耳には入って来ていない。 とすると、サンクフレシュ絡みでは無いのか。 アンシェルの方、ゴールデンスミス・ホールディングのトラブルだろうか。 招待されたパーティーを途中退席して戻らなくてはならない位の 深刻な障害とすると・・・・・アンシェルから聞いている様々な案件が浮かぶ。 どれも小さな国の年間予算を上回る金額を動かす規模だ。 しかし、ここニューヨークで・・・? 当て嵌まるものは思い浮かばない。 「分からないか?まあいい――――ロンドンまで書斎にいる。  用があるときは、声を掛けろ」 おつきの秘書に言い置くと、ソロモンに視線で付いてくるよう促す。 アンシェルについて隣室に入ったソロモンは、時計を見た。 「もう離陸ではないのですか?」 「ああ」 「では、僕は失礼します。その前にこれを」 内ポケットから、一週間暖め続けた箱を取り出す。 予想通り、アンシェルは受け取りながら鼻で笑った。 「決まりごと、ですから」 「おまえも変わらんな」 「ご笑納下さい」 ドアに向かい、踵を返したソロモンの名が低い声で呼ばれた。 立ち止まり振り返ってみても、アンシェルは背中を向けたままだ。 「まだ、帰っていいとは言っていない」 「ですが・・・」 緩やかに機体が動き出した。 離陸の為の滑走路に走り出す。 「兄さん?」 怪訝そうな表情のソロモンに、顔だけ向けて言った。 アンシェルの口元には、苦いものが若干混じった笑み。 「今日一日あれだけ物言いたげな顔をしていて、このまま帰るつもりか?」 見られて、いた・・・? 表情の固まったソロモンは、促されるまま席に着く。 程なく身体が押し付けられる感覚――――飛行機は離陸した。 「可哀想に、秘書はおいてきぼりですよ。先に仰って頂ければ、言い置いてきたのですが」 「・・・・・」 ソロモンは何やかやと話続けていた。 物言いたげとアンシェルは形容したが、実際どんな顔をしていたのか。 クレアにも"待ち人来たらず"を指摘されている。 気恥ずかしかった。 そんな内心を知ってか知らずか、アンシェルは薄く笑いを浮かべたまま何も答えない。 シートベルトを外して大丈夫とのアナウンスが流れると、書斎のドアがノックされた。 アンシェルの秘書が、一抱えの白い箱をワゴンで運び入れる。 秘書が退室するのを待って、ソロモンは口を開いた。 「これは?」 「・・・・・まだ分からんのか」 アンシェルは心底呆れたように言った。 「これがおまえの"物言いたげな"理由だろう?」 まさか・・・ しかし、サイズといい、微かに漂う甘い香りといい、自分の頼んだものと合致する。 空港に向かう車内で受けた第一秘書のクレアからの電話の内容も、これがここに あったのであれば納得できる。 「店主は『ご注文の件はご心配なく。良いクリスマスをお過ごしください』と」 クリスマスの当日、夜6時を過ぎても引取りに来ない客に対する台詞ではないだろうと 首を傾げたが、こういう事だったのか・・・・・! 箱を持ち上げてみれば、果たして真っ白いホールのケーキが現れた。 書斎内はバニラエッセンスと洋酒の香りで満たされる。 黄色みを帯びた華奢な飴細工とラズベリーなどの果物が数種類乗ったケーキは、 確かに自分が注文したものだ。 3つのクリスマス・パーティーを掛け持ちしているアンシェルとの晩餐が無理なのは分かっていた。 だから、執務室で食べられるようにテイクアウトのケーキを頼んだのだ。 あまり甘過ぎない品を出す、ちょっと生意気な看板娘と腕の良い職人のいる行き付けの店で。 ケーキの上箱を手に振り返ったソロモンがアンシェルを捉える。 得心したか―――――そう言いたげに彼は口元を歪ませた。 アンシェルの出立の見送りに行くのは常だが、ケーキの話は一言もしていない。 だから、あれ程のため息をついたのだ。 見ていないようで、見ているんですね、あなたは――――― 「ここのケーキは中々ですよ」 お取りしましょう、そう言ってナイフを手に取った。 器用に切り分け、アンシェルの元へと運ぶ。 「このケーキにはタイトルが付いているそうだ。あの小生意気な娘が言っていた」 「あなたが直接連絡されたのですか?!」 「・・・仕方が無いだろう。私の秘書では埒が明かなかったからな」 アンシェルの顔が、憮然という言葉がぴったりの表情になる。 そばかすに赤茶けた金髪の看板娘とこの兄がどんな会話をしたのか、かなり気になるところだ。 しかし、アンシェルの機嫌が下降気味になったので、あえて触れない事にする。 「何と言うタイトルなのですか?」 「"Fly Me to The Moon"だ。俗な名だな。店主はおまえをイメージしたと言っていたが」 成る程、な。 そう言いながら、アンシェルは指先でソロモンの金糸に触れたのだった。 ゴールドスミス・ホールディング所有の小型ジェットは、雲の無い夜空に輝く大きな三日月を背景に 滑るように飛んでいった。
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