数日後。

初老の執事が、心配そうにソロモンの顔を覗き込む。
ソロモンは微かに笑って見せると、言った。

「シェフにとても美味しかったとお伝え下さい」

目の前の紅茶のカップを、すっと奥に押しやった。
中身は、半分以上残っている。
カップ以外のテーブルにある食器の中身もかなりの部分が残されていた。

「いつも残してすみません、とも」
「ソロモン様・・・・・」

形ばかりナプキンで口を拭うと、執事の気遣わしげな表情から顔を背けた。
執事はそれ以上何も言わず、食器を手に部屋を出ていった。



扉が閉まるやいなや、ソロモンは窓に駆け寄る。
乱暴に大窓を開け放ち、バルコニーに出ると石の手摺に半分身を乗り出した。

「・・・!・・・うぐっ・・・げぇ・・・」

くぐもったその声は、暫く続いた。





嘔吐が治まったソロモンは、手摺に寄りかかりずるずるとしゃがみ込んだ。
色を失った唇を手で拭う。
荒い息の元、一人ごちた。

「明日はアンシェルが戻られるというのに―――――」



この情けない姿・・・!



怒りと悔しさが、ソロのモンをして己の拳を石に打ち付けさせる。

無言で二度、三度と続ける内に、次第に腹の底から可笑しさが込み上げてきた。



ここが自分の限界だという事か・・・・・



これまで学び、追い続けて来たもの―――――
それがもう目の前に見えているかもしれないのに・・・?

"アンシェルの宝物"

彼の口調は、それが人を変え、果てない欲望から人間を解き放ってくれる何かを
内包していると言外に匂わせていた。
それを見せようというのに―――――――



もう・・・終わりだ。今度こそ、間違いなく見限られるだろう。

アンシェルに。

そして、自分にも。



天を仰いだ瞳から、ぽろりと涙が落ちた。



己の居場所を全て失い、誰からも必要とされず、更に自分をすら信じられない者は
どのように生きていけばよいのか。
ソロモンには分からなかった。











前  夜  ――6――











帰って来るなり執事に耳打ちされたアンシェルは、困惑の表情を浮かべた。
目覚めて間もないディーヴァも気になったが、これまでのところ完全覚醒には至っておらず
静かにまどろんでいるという報告もあって、真っ直ぐにソロモンの居る寝室に向かう。

ソロモンは、クッションに背を凭れ掛けてベッドに座っていた。
柔らかい午後の陽光に満たされた室内で、アンシェルを認めて微笑む。

「おかえりなさい、アンシェル。お疲れ様でした」

アンシェルはその姿が、日の光に溶けてしまう錯覚を覚えた。
それほど透明で、とても淋しげな微笑だった。



「もうお聞きになったでしょう?」

あまり大きくない声で、諦めと自嘲を含んだ口調で続ける。

「あなたのご期待に沿う事が出来なくて、申し訳ありません」



陽光を反射して光る瞳。
その眦に涙を湛えているようにアンシェルには見えた。



「頭の中では理解できているのですが―――――」



自分の胸に手を当てる。



「僕の心は、思ったよりも・・・強くなかったようです」



「・・・・・ソロモン・・・」



「本当に、申し訳ありません・・・・・」















灯りの無い、暗い書斎で爆ぜる暖炉を見つめる。
一人ソファーに座るアンシェルの顔を、踊る炎が赤く染めていた。



数日前のあの晩も、同じように暖炉は燃えていた。



炎によって赤く彩られた、白い裸体。
それを膝に乗せ、背後から掻き抱くアンシェルもほぼ全裸に近い。
決して暖炉の所為ばかりでなく、全身を薔薇色に染めたソロモンが低く呻いていた。

首筋に顔を埋め、うなじを味わう。
同時に、ソロモンの細い腰を前後に揺さぶる。
埋め込まれたアンシェル自身が、秘所の内壁を擦り上げた。

「・・んんっ!・・・・・んあっあっ・・んううぅ・・・・・」
「・・・良い、か・・・?」
「・あ・・は・・・・は・い・・・・アン・・シェル・・・」

切れ切れながらも、しっかりとした応え。
ソロモンの意識が、快楽に飲み込まれている訳ではない証だ。

アンシェルは、華奢な顎に手を掛け、後ろを向かせる。
快楽に震える瞼がゆっくりと開いた。

濡れる青い瞳が、真っ直ぐにアンシェルを捉えた。
微笑んで細められた瞳に、穏やかで強い意志が宿る。


「・・・とても、いい・・・です・・アンシェル・・・」


薄く開いて浅い息を吐く唇がうっすらと光り、見る者を誘う。


アンシェルは息を呑む。
初めての時より、サディスティックな欲望のままに無理やり抱いた時より、遥かに扇情的だ。
自ら抱かれ、快楽に酔う自分を受け入れて、華開いたのか―――――



―――もう、大丈夫だ

―――所詮、あのような下賎な輩に貶められるような、弱い人間ではないのだ、ソロモンは



彼の放つ、抗いがたい色香に身を任せ、唇を塞ぐ。
これまでよりも乱暴に咥内を舐れば、一瞬身体を震わせたものの、すぐに応えてくる。
激しく絡み合う舌。

ふと、後頭部に何かが触れた。

それ――――ソロモンの左手はアンシェルの髪の中に進入し、愛撫するように蠢きながら、力を増す。
唇を逃すまいとするように。



―――本当に、大丈夫だ



アンシェルは、手加減を止める。
否、すでにアンシェルの欲望の炎が限界を超え、とうとう溢れ出したのだ。

ソロモンの腰を揺さぶる手に力を篭めた。
振れ幅が大きく、早くなる。

「んああっ!」

大きな声で一つ啼いたソロモンが、背を反らせた。
自身の根元を握るアンシェルの手に、自分の両手を重ねる。

締め付けも強くなる。
アンシェルは小さく呻く。

「―――もう、いくぞ」
「ぼく・・も・・・んっ!・・・ん!・あ!・・・あ・んあああああああっ・・・!」



ほぼ同時に果てた後、どちらからともなく唇を寄せ、深い深い口付けをした。

それにはソロモンの負の感情など微塵も含まれていなかったはずだ・・・・・

なのに、どうして・・・?



石造のように微動だにせず、アンシェルは揺れる炎を見ていた。
















同じ頃。

ソロモンは、体力の落ちた不自由な身体を動かし、何とかベッドから降りた。
よろよろと伝う様に部屋を歩き、僅かな荷物を集める。

追い出されるよりも、今夜のうちに消えてしまいたかった。
行く当てなど無いが、この館に留まって再びアンシェルと顔を合わせることが怖かった。
口を利くことが、彼の目を見ることがとても恐ろしかった。



館を出て、頼れる親戚の縁も、財産も無い自分がどうしていったらいいのか・・・・・
持ち合わせているのは多少の医学の知識だけで。
あとは、この身体のみ。

鏡に少し痩せた顔が映る。

やつれても、まだ綺麗な部類だろう。
力も寄る辺も無い者にこの顔は、却って不幸をもたらすに違いない。

いっそ、娼館にでも行ってみるか。
埒も無い考えが、ソロモンの口元を自嘲ぎみに歪ませた。



窓辺の机に歩み寄った。
机上に据えられた箱を開き、封筒を取り出す。

宛名は『ソロモンへ』
2日前執事から手渡されたものだ。
アスガーが持ってきたと云っていた。

アスガーからの手紙には"くどい"程の謝罪と、呆れるほどのテオドールへの慈悲を希う内容が綴られていた。



中に―――もう1通手紙が入っていた。
薄いプルーの封筒で表面に軍の紋様が印刷されている。
送り主はテオドールで、宛名はやはりソロモンだった。
共にフルネームが記されている。

テオドールからの手紙なぞ、触れるのもおぞましい。
その為、開封していない。

けれど、持って出るつもりも無かった。



しばらく眺めていたソロモンだったが、椅子に腰を下ろし封を切った。



手紙は"親愛なるソロモンへ"で始まっている。
妙なところで几帳面な彼らしい、綺麗な文字が並んでいた。



『硬い挨拶は抜きだ。
 これがおまえの手元にあるってことは、オレはもう雲の上って訳だ。いや、地獄の底かもな。
 涙の1粒2粒は流してくれたんだろうな?』



唐突な口上にソロモンは目を剥いた。
慌てて紙を繰る。

手紙の最後に記された日付は、2週間ほど前のものだった。



『生前にこうやって書いておいた手紙を、戦死したら通知と一緒に希望のお届け先に郵送しますって
 軍の新しいサービスだそうだ、親切なんだか分からんが。仮にオレが受け取るほうだったら・・・
 嬉しくねーな』

『生前を偲び、盛大に泣いて下さいって事だろう?それともオレの遺言をしっかり聞きやがれってことか?
 どっちにしたって余計お世話には違いない』



その後、軍への少々の批判と多大な悪口が延々と続き、その悪びれない書きっぷりがかつてのテオドールを
髣髴とさせるものであったので、ソロモンは思わず苦笑する。



『貴重な紙面をくだらないことに費やしちまったな。これから先が本当の遺言だから、
 これまでの文章は忘れてくれてもいいぜ』

『これからおまえを手助け出来ないのは、本当に心残りだ。傍に居て、守ってやることが出来ないんだから』



ソロモンの口元から苦笑は消え、表情が無機質なものに変わる。



『実は色々な面で不器用だし、意外とおっちょこちょいなところもあるし。
 傍で見てて、ホント危なっかしいんだよ、おまえは。そこんトコ、自分で分かってるか?』



対面で話しているような文体の所為だろう。
ソロモンの耳に、テオドールの声が響いてきた。
あれだけのことをされたのに、響く声に嫌悪は感じない。

続く内容には"ちゃんと食事は摂れ"とか"徹夜はするな"等々、これまで彼に云われた
様々な"お小言"が書かれていた。
本当にあの寮の相部屋で、それぞれのベッドに腰掛け話しているような錯覚を覚える。



『まあ、これ位で勘弁しといてやるか。所詮オレは死んじまってるんだし、
 あんまり煩い事言って、墓参りに来てくれないのも寂しいしな』

『前に話したろ?オレんちの敷地内にはアドリア海に面した断崖があるって。
 オレの墓、そこに出来るから』

『実家の方に宛てた手紙で頼んどいたんだ。オレと反りの合わなかった親父どのだけど、
 一人息子の最後の願いくらい聞いてくれるだろうさ』

『断崖の上で、おまえの瞳に良く似たアドリア海を眺めて、待ってるよ』



『最後に』



『戦場なんかで死んだオレが言う言葉でもないけれど、ソロモン、おまえは生き抜いて欲しい。
 こんな嫌な時代だけれど、笑いを絶やさずに歩んでいって欲しいんだ』



『オレ、おまえの笑顔、大好きだった』



『いい医者になれよ。ん、じゃな』



懐かしい声は消え、耳が痛くなるような静寂が訪れる。

ソロモンは立ち尽くしたまま、瞬きも忘れて手紙を見つめていた。
意識せぬままに溢れた涙が、頬を伝い、はたりと手紙に落ちる。





アンシェルは強くなれ、といい、テオドールは生きろ、という。





彼らの期待を裏切るような真似が出来るか・・・・・?

逃げるようなことが出来るか・・・?
このまま負けて・・・いいのか・・・?

本当に?





ソロモンは立ち上がる。
満足に食事を摂っていない為ふらりと揺れる身体を、両の足に力を篭め支える。
机に手を付くことは無かった。



まだ、まだだ。
諦める訳にはいかない・・・・・!

敗れたまま生を終えるなど、何も為さぬまま死んで行くなど・・・許せない!
















深夜にドアをノックする音に、アンシェルは眉をひそめた。
誰何すれば、返ってきたのは意外な人物の応えだった。

「入れ―――――こんな時間にどうした、ソロモン」
「突然申し訳ありません」

軽く一礼し、まっすぐにアンシェルに向かった。
途中幾度もふらつく。

ソロモンの足取りを覚束ないと見ながらも、アンシェルは手を貸さなかった。
ドアのノックの音からも、急な来訪の非礼を詫びる声にも、感じるものがあった。


彼は変わった、と。


夕方の弱々しい様子は払拭され、顔を上げしっかりとアンシェルを見ている。
その視線は睨んでいるといってもいい程の強さを湛えていた。

「前言を撤回させて下さい」
「・・・・・」
「もう一度だけ、ぼくにチャンスを下さいませんか?」
「・・・・・・・・・・」
「愚かなぼくにも、やっと回りを見ることが出来たんです。決して一人ではない事に、
 今更気が付いたのです―――あなたの宝物に合わせて欲しいのです。
 まだその気を失っていないのなら」

言葉を切り、つと目線を落とす。
頭を一つ振った。

「いえ、あなたの中で既にぼくを見限ってしまっていても・・・最後でいい、一度でいいんです!
 機会を下さい・・・!」

ソロモンはアンシェルの腕を掴み、身体を寄せ――――縋り付いた。

「お願いです・・・!」



アンシェルはふっと微笑んだ。

「誰が、おまえを見限ると言った?」

自分のスーツを握り締めたソロモンの手をそっと外す。
造り付けのクローゼットに歩み寄ると白いシャツを取り出した。

「丁度良い、これから合わせよう。着替えて附いて来るが良い」
「・・・これは・・・」
「おまえのものだろう?」

白衣だった。
数日前まではほぼ毎日身に着けていたのに。
もうずっと袖を通していない気がする。

「それがおまえの正装だろうと思ってな―――早く着ろ」
「・・・・・はい!」














―――――――――――――――――― 長々お付き合いありがとうございました