まだ僅かに動く眼球を巡らせれば漂う土埃と煙。
その中は、瓦礫の崩れる音しか聴こえてこない。

視界はひび割れたガラスを通して見る様な世界だった。
結晶化を始めたのは視神経か、それとも水晶体だろうか。
既に手も足も感覚が無い為、確かめる術は無い。
刺し貫かれた時に、諸共と腕に抱いたあのシュヴァリエの体温も感じられない。

がらがらがら。
メットの崩壊を告げる音がどんどん大きくなっている。
また崩れた―――――

アンシェルは壁に縫い付けられたまま、瞼を閉じた。










dawn











「ハジ!やあっと見つけた」

突然耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある明るい声だった。
何やら独り言を呟きながら、周りの瓦礫を除けているのか、とても騒がしい。
瞼を上げると、白いブーツにタイトなズボンが見えた。紫の上衣の裾も。

ネイサンが巨大なコンクリートの塊を破壊していた。
自分が見上げているということは、下肢および下腹部はもう粉々なのだろう。

ギシギシいう唇と舌を動かし、声を発した。
「何…しに…来た……ネ…イサ…ン…」

ぎょっとした顔で飛び退いたネイサンだったが、瞬時に私の状態を正確に理解した。
近寄り、眼前で屈み込む。

「まだ息があるとはね、流石だわ」
「・・・・・・・・・・な…ん…だ……」
「ハジを、頂いて行くわよ。小夜には彼が必要だもの」
「・・・・・・・・・・」

小夜……
その名前に、もはや感情は動かない。
同じ顔の、対になる、愛しい我が女王は石になって砕け散ったのだから。

ネイサンの手が視界を黒く遮る。
もう眼球を動かすことは出来ない。視界のひび割れも酷くなっていた。
この男が何をしているのか見えないが、腕の角度から推測すると私の目から鼻、頬辺りをなぞっているらしい。
気安く触れるなと、あれほど云っていたのに。

「あなたも―――――頑張ったわね。よくやったわ」

光度が十分では無い所為と、視覚が機能を失いつつあるため、この男の表情は分からない。
だが、声の震えは聞き取れた。
貴様なぞに、哀れまれるいわれは無い。

「何様……だ…」

はっきりと発せられた言葉に、ネイサンが苦笑した。
薬指で瞼を拭い、顔を寄せた。

あなたのそんなところが大好きよ。
口付けて、そう言った。

ため息の一つも付きたいところだが、肺も腹部も動かない。
痛みも無いが、感覚も無かった。
間もなく、心臓も鼓動を止めるだろう。
最後の息を吐き出し、答えた。

「好…き………にし……」

言い終える前に、瞼が落ちた。
ネイサンがどんな顔でこの言葉を耳にしたのか分からなかったが、すうっと息を呑む音が微かに響いた。

ありがと。
その言葉に、近くで硬質な何かが砕ける音が被る。
奴を拘束していた、私の腕…か…

じゃりっという音と靴音。
立ち上がったか。

「さよなら、アンシェル」
その言葉を最後に、奴の気配も消えた。






『五感の中で最後まで残るのは聴覚』というのは本当らしい。
未だに瓦礫の崩れる音が、耳鳴りのような雑音混じりながら聴こえる。
最後に聴くのなら、ワーグナーが良いんだがな。
埒も無いことを思う。

再び声が、した。
兄さん、と。

『アンシェル兄さん』

―――――おまえは…誰だ。

『ソロモンです。お忘れですか?』

ありえない。
ソロモンは、この腕の中で―――――死んだ。
愚かにも、愛しい小夜の血で、な。

『……愚かにもですか』

くすっと笑う声が聞こえた。

『愚か、かもしれませんね。ぼくは、あなたの弟ですから』

続けて笑った。

あなたも十分愚かでしょう、兄さん?
違いますか?

揶揄を含んだ、けれど嫌味の全く無い口調と穏やかな声は。
間違えるはずも無い。

私を笑いに来たのか、ソロモン?

『いえ。ぼくはずっと待っていたんですよ』

私が死ぬのを、か。
貴様の愛しい小夜に殺されるところを、か。

『兄さん』

見えないが、首を振って苦笑いする姿が浮かぶ。

ぼくは、待ってたんです。
あなたが振り返ってくれるのを。
ずっと、ずっとあなたの後ろで。
待っていたんですよ。

『さあ』

見たい。
腕を差し出しているであろうその姿を。
あの太陽のような金糸を、抜ける青空のような二つの青い瞳を、あの天使のような微笑を。
もう一度、見たいと、願った。






その時、オプションDのミサイルがメットに着弾。
NYの空は、暁の色に染まったのだった。