on New Year's Day


NYの片隅にあるサトーの診療所。
ソロモンはその屋上で、数時間前に年を越したNYの街を眺めている。
遠くで鳴るサイレンの音、華やかなイルミネーション。
白み始めた空の下、流石に歩く人の姿はまばらだ。

この診療所、正確にはサトーの知り合いの所有であり、サトーは彼女の留守を
預かっているに過ぎない。
勤勉とは言い難いこの男に、診療所を丸投げで託す所有者の考えも分からないが、
日本で開業している自分の医院を休止してまで手伝いにやってくるサトーもまた、
良く分からない。

ソロモンは"あの復活"後、医学部をきっちり4年で卒業し、NY所在の大病院に勤務していた。
だが時折、サトーに乞われてこうして手伝いにやってくる。

ゴールドスミスを名乗ると決めて以来、意識して他者との関わりを持たないようにしている
この自分が―――――

サトーにはかつて借りもあったが、既に返済済みであるし、自分が翼手であることは
知られているが、それを公表してもこの男の利益にはならない。
むしろ、消されるだけだろう。
弱みを握られている訳でもなく、破格の報酬を貰っている訳でもなく、まして自身の財産の他に、
アンシェルの遺産を受け継いだ自分が金の為に動く事などありえない。

では、何故・・・・・・・・・・答えは分かっている、つもりだった。


サトーという男が纏う暖かい空気の魅力に、つい引き寄せられてしまう。
殊に日常に疲れを、寂しさを感じるときに。

癒しを求めてしまうのか、それとも――――――甘えたいのか。


見かけは確かに年上だが、実年齢ではサトーは遥かに若輩者だ。
年下の人間に甘えるなどと・・・・・ありえないだろう、と思う。
だが、呼ばれると断らずに来てしまう自分がいる。
我が事ながら、理解出来ない。

他人の事は云えないな。
僅かに白い息を吐きながら、ソロモンは小さく笑った。



「ひょ〜、寒いね」

鉄製の扉が開く音と共に、"勤勉とは言い難い"医師、サトーが咥え煙草でやってきた。
着膨れて、南極基地の越冬員も斯くやという格好だ。
ソロモンの隣に立ち、柵の金網に背を預けた。
煙草を手に取り、ほうっと白い煙を吐く。

「ようやく一段落ついたよ。このまま、静かな新年の朝を迎えたいもんだ」

階下の診療所の、最後の患者が引き上げたのだろう。
普段の患者に加え、カウントダウン前にも関わらず呑み過ぎた者、酔っ払って転んだ、
喧嘩した等々で診療所はごった返していた。
サトーと通いの看護師一人(それもニューイヤーイブということで定時に逃げられた)では
とても回らない状態に陥ったため、救援要請のコールが為されたのだった。

「毎年、こうですか?」
「どうだろうね。私は年越し初めてだから」

サトーはソロモンに向き直り、いつの間にか戻った煙草を口の端で器用に咥えたまま言った。
笑っている所為で、丸い眼鏡の奥の細い目が更に細くなり、一本の曲線と化している。

「来てくれてありがとう。助かったよ」
「・・・いえ。特段用事もありませんでしたから」
「エライ年越しさせちゃって、ネイサンに怒られるな。今年はパリから戻ってくるって言ってたろ?」

戻っては来てますけど、と言葉を切り、ソロモンはくすっと笑った。
「彼氏とイイコトしてるから邪魔するな、だそうです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・若いんだねえ」
「ええ。3日の滞在で、4人こなさなきゃならないそうですから」

サトーは2,3回目を瞬かせ、お盛んな事で、と感想を述べた。

細身の体が倍になる程着込んだ内側から、携帯用のウイスキーボトルを取り出す。
独特な流線型のシルバーのボディは無数の細かい傷が付いており、使用年数の長さを
物語っていた。上を向いて、くいっと傾ける。
満足げにふうっと息を吐くと、ボトルをソロモンに差し出した。

「中々上物だよ、やるかね?」
「・・・新年を迎えた事ですし、頂きましょう」

同じようにボトルを傾ける。
言うだけあって、中身の琥珀色の液体は、木の芳醇な香りとフルーティな味わいを兼ね備えていた。
あまり食に興味の無いソロモンでも、かなり良い物だと分かる。

「良い品ですね」と、柔らかく笑った。
と、一陣の風が屋上に積もっていた雪をサアッと巻き上げ、ソロモンの金糸をなぶり、
踝まである真っ白いコートの裾を大きくはためかせた。

まるで、大きな純白の翼を広げたかのように。

その様子にサトーは目を細め、日本語で呟いた。
「『眼福、眼福』」
「がん・・・?」
「目の保養ってことさ。新年早々、ありがたいものを拝めたんでね」
「ありがたいものですか・・・」

ソロモンは辺りを見回すが、変わった様子は無い。
問うようにサトーを見れば、軽く笑って肩を竦めるだけ。
何の事かは解らないが、突っ込んで問いただす程もない。

軽くボトルの口を拭い、ご馳走様でした、と手渡そうとした。
しかし、サトーは首を振って受け取らない。

「君が持ってるといい。こんなもので申し訳ないが」

それでもね、と言葉を続ける。
「私と行って、無事に還ってきた代物だから―――――行くんだろう、戦場に?」


ソロモンは笑顔のまま、だが答えない。
笑っているにも拘らず、彼の周囲の空気がすうっと冷え緊張感を帯びた。

目が、何故知っているのか、と無言で問うている。

そんな変化に気がついているのか、のんびりとした口調でサトーは続けた。

「ネイサンが零していたよ。一人で行くと云ってきかないと」
「・・・・・・・・・・」
「そんなに意固地になる必要もあるまい?君一人が背負わなくちゃならないことでもないだろうに」

吸い差しを携帯の吸殻入に落とす。

「確かにアンシェル・ゴールドスミスは君の兄で、君も加担した彼の行為が
 今の事態を招いたことは間違いない」
「・・・・・・・・・・・・・・色々、ご存知のようですね」
「少しだけさ・・・・・けれど、それは君たちだけの所為でもないだろう?」
「・・・・・・・・・・仰っしゃりたいことは、それだけですか?」
「いんや、まだあるよ」

言いながらセブンスターを取り出し、トントンと淵を叩く。
サトーは、飛び出した煙草と笑みを口の端にぶら下げて言った。

「あとの残りは、君が帰ってきてからにするよ」

ソロモンはふうっと大きく息を吐くと、横に頭をひとつ振る。
全身を覆っていた、刺すような空気は消えていた。

「ネイサンはあなたに甘えすぎる。そんなところまで話してしまうなんて―――――」
「話したところで、バラされる心配は無いと踏んだんだろう。ま、バラしたところで、
 与太を飛ばしていると思われるだろうし・・・社会的信用ってものは無いからな、私は」

「そんなことではありません・・・・・!」

自分とは対照的で怒気を孕んだ声音に、俯いて煙草に火を点けていたサトーは顔を上げた。
ソロモンは珍しく眉根を寄せ、怒った表情をしている。

しかし、その顔は次第に色を変え、紅潮していった。
サトーから視線を外し、口元を手で覆い、うろたえるような様子さえ伺える。

あまりに"らしく"ないその様子に、サトーはマジマジと眺めてしまった。
それに気がつき、ソロモンは背を向ける。





実際、ソロモンは狼狽していた。
己の心に沸き起こった"怒り"の理由を理解してしまったから。

シュヴァリエの事を詳しく知り過ぎてしまう事は、サトーの身に危険を及ぼす。
それが解っているのに話してしまうのは、ネイサンが自分の感情を持て余しているからか。
ネイサンにとっても、小夜の傍にいるディーヴァの子供たちに危害が及ぶかもしれない原因に
手を貸した事実は気に染まないのだろう。
しかし、自分の鬱を一人で始末出来なくて、挙句、そのはけ口をサトーに求めるなど―――――!


初めは確かに、サトーの身を案じた。
そして、甘え過ぎるネイサンに、それを許すサトーに腹を立てた。

・・・・・・・・・・妬いたのだ。
小さい兄弟が、父親の右手を、母の膝を奪い合うように。
自分だけを見てと言うように。


何と、幼い独占欲だろう・・・・・!


ソロモンの顔は、恥ずかしさのあまり、茹でたように真っ赤だ。
白み始めたとはいえ、NYはまだ色彩に乏しい夜の支配下である為、
サトーに気づかれる事はないだろうと思う。
その僥倖に感謝しつつも、赤面は中々治まらない。



一方、何となく、彼らしく無い狼狽の理由が解ってしまったサトーは、どうしたものかと考える。

真っ暗な中にいるのではないのだから、背中を向けても色の白いソロモンのこと、
首筋や耳が真っ赤に染まっているのは見て取れるのに。
心配してくれた事は嬉しいし、焼きもちを妬いているのは可愛いと思うが、それを口にしたら
この見かけによらない意地っ張りに、どんなしっぺ返しを喰らわされるか分かったもんじゃない。

韜晦したほうがお互いの身の為だな・・・・・
強引に話を変える事にする。

「派遣先は何処だい?」

サトーの問いかけにソロモンは振り返った。
その時は、まだ口元を手で覆ったままだった。
次第にいつもの彼に戻り、そして―――――そんな普段の姿を"通り越した"ように見えた。

口元には笑み。しかしそれは、いつもの穏やかなものではない。
どちらかと言えば性質の悪いと分類される類のものに見受けられた。

ソロモンの形の良い唇から、中東のある地域名がゆっくりと発せられる。
それはあまりによく知っている地名・・・・・

この診療所の所有者が現在寝起きし、働いている場所であり、
かつてはサトーもかなりの年月を過ごした場所。

先程の話題からは逃れられたものの、完全に方向を誤った事をサトーは悟る。

「・・・・・そちらこそ、色々良くご存知のようだね」
「ええ」


良い機会だと思った。
彼が触れて欲しくないのは、十二分に理解している。
この地に纏わることは現在も―――――過去も。

無理に話題にすれば、この温かくて居心地のいい場所を失うかもしれない。
いや、失うだろう。そうでなくては、意味が無い。

今からサトーがするであろう表情や、言葉を想像すると自分の心も痛むけれど。
もうこれ以上、翼手やシュヴァリエのことに巻き込むわけにはいかない。

向こうが与えてくれた機会だ。
無駄にする訳にはいかない。

意を決して開いた唇に、何かが触れた。

「はい。そこまで」

至近距離にあったのは、サトーの手。
唇に触れたのは、吸いかけの煙草だった。

早口で一気に捲くし立てる。
「私はオーナーのシューシャに惚れてますよ。彼女が戻ったらちゃんと告白します。
 だから、向こうで彼女に会っても余計な事は言わないでね。それと―――」

言ってしまって落ち着いたのか、ほっと一息つくと、ソロモンを見上げ微笑む。

「それと昔の話は無しだよ。今の私には、もうどうしようもない事柄だからね」

サトーはソロモンが言い出すであろう事を全て言い切って、はい、この話はおしまいと
ウィンクして見せた。
毒気を抜かれて唖然とするソロモンを見て、今日は色々珍しい表情をするなぁと思う。

サトーがふーっと吐き出す煙で、はっと我に返ったソロモンは食い下がった。

「ですが―――――!」
「おしまいっていったろう?かなり恥ずかしい発言もしたんだから、勘弁してよ」
「そうはいかない!深入りすれば危険な事は分かっているでしょう!」

「ん〜。でもさ・・・」
言いながら、口から立ち上る煙で丸い輪を作る。

そのあまりにも緊張感の無い様子に、ソロモンは苛ついた。
予想通りの展開になっておらず、すっかりサトーのペースに巻き込まれていることもある。
自分の感情に負荷をかけてまで話しているのに、その態度は無いだろうと憤る気持ちもあった。

けれど。



「守ってくれるだろう、君は?」



だからさ、危ない事も無いと思うんだよね。
いつもどおりの、まあるい笑顔でそう言われて。



この台詞は反則だろうと思った。

まだ、サトーを宥め賺かして、あるいは恫喝してでも自分たちから遠ざける手管はあった。
しかし、ソロモンはそれをしたくなかった。

もう完敗だ・・・・・そう認める。
既に僕は彼を、自分の懐に入れてしまっている。
彼に対して、肉親に近い感情を持ってしまっている。切り捨てる事が出来ないほどに。

ソロモンの中に形成されつつあった尖った気持ちは、融けてその姿を消していく。
でも、このままサトーのペースで終わるのは、自分の矜持が許さない―――――



「あなたは解っててその言葉を使ってるんですよね?」

苦笑交じりに言う。

「あなたが女性だったら、僕は今この場で抱き締めてキスしてますよ?」
「・・・いっ?!」
「だってその言葉は、女性が落とせると見た男性に使う"殺し文句"でしょう?」
「!?」

断じてそんなつもりは無いサトーは、ズザっと後ずさった。
下がりながら、慌てて自分の言葉を反芻する。

「ま、間違えた!"君は"じゃなくて、"君たちは"だ!これでおかしくないっ!!」

ソロモンはにっこり笑って、じりじりと下がり続けるサトーに近づく。

「こういうのを日本語で・・・・・そうそう『覆水盆に返らず』ですよ」
「そんな日本語は知らなくて宜しい!」
「・・・・・実は・・・僕は前からあなたの事を」
「―――!!」

サトーは頬に伸びてきたソロモンの手をかわすと、脱兎のごとく逃げ出した。
こけつまろびつしながら出入口の鉄製の扉に飛びつき、捨て台詞と共に物凄い音を立てて締める。

「出入り禁止ーっ!」

あの慌てっぷり――――笑ってしまう。

また甘えてしまったかな・・・・・
サトーには感謝こそすれ、恨みに思うことなど何も無いのに
また、気晴らしのためだけにからかってしまった。

ソロモンの頬を、一条の朝日が照らす。

これから飛び込んでいく場所では、自分とアンシェルの負の遺産を、厭というほど
見せ付けられることは想像に難くない。
だが、この新しい年の最初の空のように澄み切ったとまではいかないが、
ソロモンの気分は悪くなかった。

この先自分を待つ、砂と熱風の国での気構えを貰ったから。
ソロモンは太陽を睨んだ。

守ってみせる―――自分のこの手にあるものを。大切に思うものを。
























診療所内の唯一の私物であるビリヤード台。
それに腰掛け、サトーは煙草を燻らす。
年が改まってまだ幾時間も経たないのに、胸のポケットの煙草は
既に二箱目も無くなりかけていた。

咥え煙草のままキューを手に取り、慣れた仕草で先端のタップにチョークを塗りつける。
手を動かしながら頭に巡るのはソロモンの事、そしてアンシェルの事。

以前ネイサンとソロモンに別々に問うた事がある。
世界を翼手で満たす――――どうして彼はあんな計画を実行をしたのか。

実現可能とはとても思えなかったし、人間には無論のこと、
彼らシュヴァリエにとっても益があるとは考えられない。
サトーには理解出来なかった。

けれど、淀み無く返ってきた二人の答えは全く同じ。
ディーヴァが、そう言ったから。

その時の感想は、一言、何だそれ?。
そんな事でオレたち人類を破滅に追い込もうとしたのか。
シュヴァリエってのは、実は馬鹿なのか?だった。

「けど、ホントにそれだけなのかね・・・」

サトーは棚からラックを取り出し、台の中央に配置すると色とりどりの球を8つ入れた。
ラックをそっと取り外し、手前に白い手玉を置く。

「勘ぐっちまうよ」

手玉の位置を微調整しながら、呟く。

「あんな彼を見てしまうとね」

オレを切ろうとした時の顔、本人は自覚無いんだろうが、泣きそうだった。
他人を巻き込む事を、あんなに怖れるなんて。

しゃがみこみレールに顎を載せ、片目で白い玉と8つのカラフルな球の位置を確認する。

あれじゃ、人間の間では生きて行けない。
山奥か砂漠か無人島か―――どこか人のいない場所で、仙人か何かのように
人間と一切の関わりを持たずにいるしかない。
あるいは――――

立ち上がると腰を曲げ、キューを構える。
勢い良く、手玉を撞いた。ブレイクショット。
派手な音がキッチンに響く。

「だから、あんたはああやって後始末が必要な災厄を撒いたんじゃないかってね」

そうすれば、ソロモンは人間世界に、現世に留まるだろう?
居る筈の無いアンシェルに問いかける。

「深読みしすぎ、とは思うけどね」

コトン。
ポケットに球の落ちる音が響いた。
同時に朝日が差し込む。

「・・・・・見守ってやってくれよ」

サトーはプールから球を取り出すと、今年最初の陽光に目を細めながら呟いた。