塔の最上階。
ここがあれの知る全世界。
あの美しく哀れな、まだ幼い生き物の世界のすべて―――――








at the zoo









マウスでさえ、餌をやり敷き藁を換えてやりすれば、後に実験用としてゲージから取り出す時には、
僅かだが心が痛む。
この痛みを覚える感覚は、それを繰り返す事で確かに磨耗する。
さほど回数を経ずとも、無視出来るほど僅かな痛みにはなる。
しかし、どんなに繰り返しても、ゼロにはならないものだ。

まして、現在アンシェルの手に委ねられているものは、マウスではない。
ヒトの形状をし、ヒトと同じような知能と感情を有すると思われる生物である。



「アンシェルっ!アンシェルっっ、これは何っ?!痛いっ!!」



乳飲み子の頃より、一人で世話をしてきた。
この生き物の主食は、人間の血液―――
14年間ずっと、自分の血を与えてきた。



「何をするのっ?!ねえっ、アンシェルっ!!・・あぅ!」



泣き喚くだけの乳児の頃は、飲ませると逃げるように部屋を後にした。
そうしなければ、ジョエルに手酷い"罰"を受けなければならなかったから。
アンシェルは毎日、耳を塞いで塔を駆け下りた。

この生き物はすぐに泣かなくなった。
何かを悟ったのだろうと思った。
助かった、とも・・・・・



「この人たちは何をしているのっ?!痛いよ!!」



次第にはいはいをし、掴まり立ちをし、歩くようになった。
その成長の早さも過程も、人間の子供そのものだった。

覚束ないものの走れるようになった頃―――――
つま先を床の石の淵に躓かせ、転びそうになったのを思わず抱き留めた。
すると、この幼い生き物は、笑った。



翌日は塔に行かなかった―――行けなかった・・・



その翌々日の昼、恐る恐る鉄格子の隙間から覗いたアンシェルに、この生き物は再び笑って見せた。
踵を返したその背中に、"あー"という声が縋り付く。
振り返れば、やはり笑顔。

コレハ コノ 生物 ノ 計算 ナノダ
ナラバ 観察者 トシテ ソノ 誘イ ニ 乗ッテミナクテハ
ソウダ
ソウ シナクテハ ナラナイ・・・・・ 

よろよろと牢内に入ったアンシェルは、屈んでこの幼い生物を抱え上げた
そして、小さい彼女を力一杯抱き締めた。



「アンシェルっ!アンシェルっっ!!いやよっ、いやあ!!」



それからも、彼女の世話を続けた。
毎日時間の許す限り、塔の最上階で過ごすようになっていた。
ジョエルから厳しい叱責と"罰"を受けることもあった。
だが、アンシェルは様々な理由を付け、塔に通い続けた。

次第にジョエルは何も云わなくなった。
その代わりなのだろう。
彼女に対する実験の頻度が格段に上がった。

鋭い刃物で皮膚を切る。刺す。
薬品で肌を焼く。
焼き鏝を当てる。
指を切り落とす。

その実験の助手は全て、アンシェル一人だった。

アンシェルは黙って従った。
実験動物―――――これがここでの、彼女の存在意義であったから。
そして、この"動物園"以外では彼女が存在出来ないことも解っていたから。



「アンシェルっ!助けてーっ!!」



毎日長い髪を櫛で梳き、顔からつま先までを丁寧に拭い、そして血を吸わせた。
最近は身体も丸みを帯び、女性らしくなってきた。

それをジョエルは機が熟したと見た。



「放して!放してよっ!!アンシェル!いやなのっ、これはいやあーっ!!」



塔の最上階で、今、彼女は複数の男たちに犯されている。
初めて見る、アンシェルとジョエル以外の人間たちによって。

冷たい石の床に転がされ、犯され続ける彼女の両腕を押さえつけているのは、アンシェルだ。
それを命じたジョエルは、その行為がよく見える場所でペンを走らせている。
牢内には彼女の悲鳴と、男たちの低い嗤い声が響いていた。

すべての男たちが精を放ったところで、ジョエルは終了を告げた。
足りないのか、口々に不満を言いつつ彼らは塔を降りていった。

ジョエルも本日中に詳細な報告を出すよう命じて牢を後にした。



人間で言えば、まだ14歳。
幼い彼女は人形のように呆然と横たわっていた。
今朝梳った髪は滅茶苦茶に乱れ、粗末な衣服は破れている。
表情を無くした顔は天井を向いたまま、一言も口をきかない。

アンシェルは言葉を掛けられない―――――彼女の名を呼ぶ事が出来なかったから。
彼女には、いまだ名が無かったのだった。

ジョエルは命名の必要を認めず、アンシェルも情が移ることを怖れるあまり名を付けずにいた。


触れようとした途端、彼女は部屋の隅に逃げた。
ベッドにしているボロ布を頭から被って、全身でアンシェルを拒絶してみせた。

アンシェルは・・・黙って牢を出た。



その日の夜、アンシェルはかつて無い程の"罰"を受けた。
報告書はただ1行「破瓜した」のみであった事が、ジョエルの逆鱗に触れたのだった。
珍しく自ら鞭を手にし、罵りながらアンシェルを打った。

 お前などは研究者ではない
 私の助手を名乗るなどおこがましい

背に数え切れない裂傷を負った彼を、手当てもしないまま抱いた。
白い絹のシーツは血に塗れた。
低く喘ぐアンシェルに顔を寄せる。

 まだ助手として置いてやる
 あの生物の実験にはお前が必要だから

 だが、お前も実験の一部だ
 あれを孕ませてみろ
 仔を産ませてみるがいい

激痛に耐えながら、アンシェルは答えた。

 双生の生物の対比を観察なさるなら
 あなたも小夜の破瓜にお立会いになるのでしょう

 私がもしあれを妊娠させることが出来たら
 あなたも小夜を抱くのですか

ジョエルの動きが止まった。
アンシェルから自身を引き抜き、立ち上がる。
そして壁に近づき、再び鞭を取った。



翌日もアンシェルは塔に向かった。
彼女は"食事"は摂るものの、終わればまたボロ布を被ってしまう。
言葉を掛けても、応えはない。

幾日もしないうちに"動物園"にも雪が舞い始めた。
アンシェルは彼女の牢内に、粗末ながらもベッドと毛布を備えつけた。
彼女の様子は変わらない。
だが、アンシェルが世話を止めることはなかった。



翌月のクリスマス。
ジョエルの屋敷では、親族を集めたクリスマスの食事会が催されていた。
端くれとは云えゴルドシュミットの一員であるアンシェルも参席した。

しかし、慣れない雰囲気と、自分を格下とあからさまに見下げる
沢山の視線に息が詰まり、抜け出した。
料理とワインのボトルを手に、塔の最上階に向かう。

ジョエルがアンシェルに対する態度を硬化させたことは、屋敷全体に広まっていた。
当主の寵愛が無くなると、使用人たちも手のひらを返したように変わった。
今や、アンシェルの居場所は殆ど無い。

彼女は牢の小さい窓にしがみつき、屋敷を見ていた。
夜に訪れる事の無いアンシェルを見て、驚く。
だが、2月ぶりに言葉にしたのは別の事柄だった。

「あれは何をしてるの・・・」
「クリスマスのパーティーだ」
「クリスマス?・・・パーティー?」
「家族が集まって、キリストという詐欺師の誕生日を祝っている」
「へんなの!」
「・・・・・そうだな」

冷たい床に座り、パーティーの食事を彼女に与える。
手づかみで、口の周りを汚す行儀の悪いものだったが、彼女は貪欲に口に運ぶ。
その様子をツマミにアンシェルはワインを呑んだ。

全てを平らげた口を拭ってやると、彼女は潤んだ瞳でアンシェルを見た。
血が欲しいのかと聞くと、こっくりと頷く。

アンシェルは石の壁に背を預けて座り、タイを外し首筋を晒した。
立てた膝の間に入り込み抱きついた彼女は、うなじに顔を埋める。
ちくっという痛みと共に、血液が流れ出すのを感じた。
静かな牢内に、こくんこくんと嚥下する音だけが響く。

石造りの牢内に、小さい窓から粉雪が舞い込む。
炎は蝋燭一本の灯りのみ。
ジジという音が微かに聴こえ、重なった二人の影を壁に揺らめかせていた。


"食事"が終わったのか、顔を上げた彼女が訊いた。

「アンシェルはどうして来たの?」
「・・・?」
「今日は家族みんなでご飯を食べる日なんでしょ?」
「・・・もう家族はいないから、な」

アンシェルは彼女が発した次の台詞に言葉を失った。




「アンシェル、私の家族ももういないの?」




彼女は抱きついたまま、小首を傾げた。



・・・・・居るさ


お前がさっきまで眺めていた場所


あの中心で皆の賛辞を受けているよ・・・・・!



きつく眉根を寄せたアンシェルの表情を真似ると、彼女はケタケタと笑った。

「いいもん、アンシェルが居るから!」

 私をあげるから
 ずうっと傍に居て

呆然と、腕の中の生き物を見つめる。
そんなアンシェルに抱きついたまま、彼女はゆっくりと口付けた。
自らの舌を噛み切った、血液を流し込みながら。













それから、年月が流れ―――――
あの晩と変わらない姿のアンシェルは、累々と転がる死体と燃え盛る屋敷を満足げに見ていた。
傍らには塔の最上階という狭い世界から開放された、成長した彼女の姿。

アンシェルは彼女の口元に溜まった血を、舐めとった。
思春期の美しい女性の姿に変貌した彼女は、嬉しそうに笑って言った。

「姉さまから名前を貰ったわ」
「ほう?」
「ディーヴァというの!」
「歌姫か」

俗な名だと思った。
ただ歌が上手いというだけでそれを名乗る者は大勢いたが、
この名に負けぬ評価を与えられた者を思い出す事は出来ない。

だが、彼女なら・・・・・

「気に入ったか?」
「うん!」
「そうか―――――」

アンシェルはディーヴァの手を取り跪き、臣下の礼を取った。

「我が女王の名に相応しい」

背後でジョエルの屋敷が轟音と共に崩れ落ちた。
立ち上がり、振り返って嗤う。

 さようなら、ジョエル
 貴様の遺産はこの私が受け継いでやる

 かつては貴様の王国であったこの廃墟で見ているがいい
 没落していくゴルドシュミットの姿を・・・!

 そして

 世界の女王となるこのディーヴァの姿と
 切り刻まれて死する愛娘の姿を